石重乂

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石 重乂(せき ちょうがい、919年 - 937年)は、五代十国時代における後晋の皇族である。後晋の高祖石敬瑭の三男。弘理(または宏理[1][2]

後晋建国期に東都の留守を務めたが、張従賓の乱に巻き込まれ、19歳で殺害された。死後、太師を追贈され、寿王に追封された。

出自

石重乂は919年、石敬瑭の息子として生まれた。諱の「重乂」にある「乂」の字は「治める」「整える」を意味し、父より統治者としての期待を受けて名付けられたと考えられる。字について、『新五代史』は「弘理」、『旧五代史』は「宏理」と記している。これは『旧五代史』が成立した北宋初期において、太祖の父・趙弘殷の諱である「弘」の字を避ける「避諱」が行われたためと推測される。

幼少より知恵が発達し、当時の武人社会にあって儒書を好み、同時に兵法にも通じていた[3]。父の石敬瑭からは、数ある息子たちの中でも特に寵愛を受けていた[4]

経歴

後晋が建国されると、石重乂は皇子として重用された。当初は当時の本拠地であった太原の皇城使に任じられ、続いて左驍衛大将軍を拝命した。

天福2年(937年)、石敬瑭が都を汴州へ移す際、車駕が浚郊に至ったところで、石重乂は検校司空を加えられ、権東都留守に任じられた。これにより、彼は旧都である洛陽の統治と防衛を委ねられることとなった。

最期

同年、鄴都范延光が後晋朝廷に対して反乱を起こした。石敬瑭はこれに対し、前霊武節度使で洛都巡検使の張従賓に軍を率いさせ、討伐軍に合流するよう命じた。しかし、張従賓は密かに范延光と通じており、軍を動員すると一転して反乱を起こした。

張従賓は婁継英らと共に河橋を占拠して交通を遮断した後、軍を返して洛陽を攻撃した。当時、東都留守であった石重乂は洛陽におり、反乱軍の侵攻によって捕らえられ、殺害された。享年19。

死後の栄誉

家族

脚注

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