村井米子
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1917年(大正6年)[1]16歳で富士山に初登頂し、その後、登山家として全国の山々を歩き、マタギの人々とも交わり、彼らの食文化について執筆している。富士山、北アルプスなどにしたしみ、日本の女性登山家の草分けとなる。1923年(大正12年)、黒田鎮夫(黒田正夫の弟)と結婚(のち離婚)。1926年、日本自然保護協会の設立に参加した。
1934年(昭和9年)にNHK入社。同年から1943年まで教養部のディレクターとして家庭番組の企画、制作を担当。1954年ごろのラジオ番組「食べある記」で全国の郷土料理を紹介する声として知られた[3]。
割烹着の発明者の娘[4]で、家庭料理や台所での工夫について著作多数。
1935年、ヒュッテ霧ヶ峰で催された「山の講習会」において、柳田国男の講義を聞いて以後、民俗学への関心を深め、柳田の書斎で行われた女性民俗学研究会に参加し、その会誌『女性と経験』の編集責任者をつとめる[3]。
1967年、文部省登山研修所が開所された際の運営委員となる[3]。1983年、日本山岳会名誉会員[3]。
1986年秋に、84歳で八幡平登山が生涯最後の山行[3]。 1986年12月19日死去。85歳。著作に『山の明け暮れ』など。没後、米子宅に保存されていた村井弦斎資料3,530点は、神奈川近代文学館に寄贈された。