村田広光
From Wikipedia, the free encyclopedia
学生時代は陸上選手だった。1964年には聖火リレーの走者を務める[1]。宮崎県立向洋高等学校(現:宮崎県立延岡工業高等学校)では1965年のインターハイで史上初の3種目(100m、200m、400m)制覇を果たし[2]、順天堂大学では、3年生時に関東学生陸上競技対校選手権大会(関東インカレ)で100m、200m、400m、400mリレー、1600mリレーの五冠に輝く(翌4年生時には三冠制覇)。
日本陸上競技選手権大会では、男子200mで1967年、1968年と連覇し、1970年にも優勝するなど三度栄冠に輝いた[3]。
順天堂大学卒業後は西日本新聞社に入社[2]し、1970年、バンコクでのアジア大会日本代表として4x400mリレーで優勝した。その後、プロ野球・阪急ブレーブスの担当記者を務め、1月の自主トレ、2月の春季キャンプでは臨時コーチを務めた[4]。阪急は1975年から77年にかけて3年連続で日本一を達成し、監督の上田利治は村田を「陰の功労者」と讃えた[4]。1978年12月、中日ドラゴンズのトレーニングコーチに就任し[4]、1999年まで約20年近くに渡り同球団でコーチを務め(1993年-1995年途中はコーチ職を離れる)、多くの選手の基礎体力増進に力を注いだ。「ヒゲの村田」「鬼の村田」と選手たちからは恐れられたが、その一方で「怪我なくプレーできたのは村田先生のおかげ」と感謝していた。
その後、体調面の不安からコーチの職を退き(遠征での移動がネックになった)、2002年より中日球団寮「昇竜館」館長兼体力強化担当として若手の指導に当たっていたが、2003年5月27日に膵臓がんのため56歳で死去[2]。昇竜館館長の職は堂上照が後を継いだ。なお、中日スポーツには村田が週一回、若手選手のレポートを書く「館長日記」が掲載されていたが、堂上がこれを引き継いで2008年末に豊田誠佑に寮長職を譲るまで連載を続けた。
背番号
- 70(1979年 - 1983年、1995年途中 - 1999年)
- 80(1984年 - 1991年)
- 90(1992年)