杜洪 (唐)
From Wikipedia, the free encyclopedia
経歴
はじめ俳優を生業とした。乾符末年、黄巣が江南を混乱に陥れると、鄂州の民衆で反乱に参加する者が多かった。鄂州刺史の崔紹は民衆から勇敢で壮健な者を募集して土団軍を組織し、杜洪はこれに参加した。中和4年(884年)、崔紹が死去すると、路審中が鄂州に侵入して占拠した。杜洪は鄂州の将となり岳州刺史を追放してそこに拠った。光啓2年(886年)、安陸の反乱者の周通が兵を率いて路審中を攻め、路審中が逃亡すると、杜洪は隙に乗じて鄂州に入った。杜洪は武昌軍節度留後を自称し、唐の朝廷に追認されて武昌軍節度使に任じられた[1]。
杜洪は宣武軍節度使の朱全忠と結んだ。乾寧元年(894年)、黄州に拠る呉討を攻めたが、呉討は淮南の楊行密に救援を求めた。楊行密が朱延寿を派遣して呉討を救援すると、杜洪は引き返した。駱殷が永興を放棄して逃亡すると、杜洪は駱殷を受け入れて腹心とした[1]。
乾寧4年(897年)、杜洪は楊行密の攻撃を受けて、朱全忠に救援を求めた。朱全忠が朱友恭を派遣して、楊行密の軍を武昌で撃破させたので、鄂州は小康を取りもどした。天復3年(903年)、楊行密が再び鄂州を攻撃すると、杜洪は再び朱全忠に援軍を求めた。朱全忠は荊南節度使の成汭に命じて荊州・襄州の水軍を率いて鄂州を救援させた。援軍が夏口に到着する前に、成汭は敗れて溺死した。天祐2年(905年)、楊行密の軍が鄂州を陥落させると、杜洪は捕らえられて、広陵の市で殺害された。開平元年(907年)、後梁の太祖(朱全忠)が即位すると、杜洪は太傅の位を追贈された[2]。