杜運宇
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初期の活動
1922年(民国11年)に京師公立第一中学を、1924年(民国13年)に上海滬江大学予科を、それぞれ卒業している[2]。1926年(民国15年/大正15年)4月、日本へ留学して早稲田大学専門部政治経済学科に入学し、1929年(民国18年/昭和4年)に卒業した[4][5]。
帰国後は山東省で任官し[注 1]、交渉署日本科長、硝鉱総局総務科長、県長訓練班教授、第一県長考試委員会委員を歴任している。1934年(民国23年)、『済南日報』社主筆に転じた。1936年(民国25年)、察哈爾省(チャハル省)政府(主席:劉汝明)財政庁秘書となり、翌1937年(民国26年)、財政庁長兼財政委員会委員に昇進している[1][2]。
親日蒙古政権での活動
1937年8月24日、日本軍が張家口を事実上陥落させ、劉汝明以下要人は逃走した。しかし杜運宇は張家口に留まり、28日に組織された張家口治安維持会において財務金融委員に就任している。9月4日、維持会は察南自治政府に改組され、杜は于品卿と共に最高委員に選出された[6]。
11月22日、蒙古聯合・察南・晋北の3自治政府による代表者会議が開催され、于品卿と杜運宇は察南代表として出席した。会議の結果、自治政府調整機関として蒙疆聯合委員会が設立され、杜運宇は総務・交通・金融兼任の委員となった[7][8]。翌1938年8月1日、6部制機構に改組されたことに伴い、杜は交通部長兼民生部長に任命された[7]。
1939年9月1日、3自治政府合併により蒙古聯合自治政府が成立すると、杜運宇は産業部長として抜擢された[9][10]。蒙古聯合自治政府での杜運宇は、于品卿(副主席)と共に、察南(自治政府)系派閥(「察南派」)と目される。1941年6月1日、自治政府の機構改革により、財政部と産業部が合併して経済部となり(財政部長の馬永魁が部長に就任)、杜は司法委員会長官に転じた[11]。
末路
蒙古聯合自治(邦)政府崩壊後の1945年(民国34年)12月頃、杜運宇は漢奸として蔣介石国民政府により逮捕されてしまった。これにより国民政府は、親日政権のモンゴル族要人については原則として赦免するものの、漢族要人についてはそのまま漢奸として摘発する意図を示すことになる[注 2]。1947年(民国36年)10月4日、デムチュクドンロブ(徳王)は北平で蔣介石と会談した際に、杜の釈放を懇請し、その結果として特赦されたという[12]。
ところが中華人民共和国成立前後に、杜運宇は当局により再び逮捕されてしまう。1960年10月27日、杜は収監されたまま病没した。享年56または57。