東乙彦
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山口県岩国藩士の東文吉の三男として生まれる[2][3]。十代のころは兄の勝平とともに川下小学校に出入りしており、1885年(明治18年)ごろに一時同校の訓導をしていた齋藤精輔の立ち上げた「数学同好会」に参加していた[4]。
1893年(明治26年)陸軍士官学校卒業後、近衛砲兵連隊に勤務。翌年1894年(明治27年)、砲兵少尉に任命され、同年に日清戦争に従軍する[3]。1900年(明治33年)陸軍大学校を第14期生として卒業したのち参謀本部に勤務。
英領インド公使館附武官、参謀本部部員兼陸大教官を経て、貞愛親王副官として英国出張に随行[3]。翌1908年(明治41年)再び渡英して大使館附武官補佐官となる。
1911年(明治44年)の帰国後は野砲兵第8聯隊隊長となる。朝鮮駐箚、第4師団参謀長、基隆要塞司令官、台湾総督府陸軍参謀長を経て、支那公使館附武官に赴任。在任中は張作霖の支援について意見を述べたほか、安徽派統領・段祺瑞の私兵である参戦軍が日本の支援を受けていたことが明るみとなり列強諸国の批判を受けると、これを日本の対支那勢力を排除する計画と受け止め反発した[5]。
1922年(大正11年)陸軍中将・下関要塞司令官を最後に1923年(大正12年)に待命・予備役編入。その後は吉川子爵家や朝香宮家に仕えた。
1936年(昭和11年)、病気危篤に陥った際には御尋として天皇・皇后から葡萄酒を賜る。同年10月13日死去。死去に際し、天皇・皇后・皇太后より祭資を下賜。10月15日の葬送には勅使が邸宅を訪問、幣帛の下賜を受けた[6]。享年66歳。戒名は「至誠院殿勲誉顕忠乙彦大居士」。
年譜
- 1890年(明治23年)12月:士官候補生、近衛砲兵連隊隊附
- 1893年(明治26年)7月25日:陸軍士官学校卒業(4期)
- 1894年(明治27年)3月7日:任陸軍砲兵少尉
- 1897年(明治30年)12月:陸軍大学校入学
- 1900年(明治33年)12月:陸軍大学校卒業(第14期生)
- 1902年(明治35年)4月:英国に派遣された[7]。
- 1903年(明治36年):英領インド公使館附武官
- 1906年(明治39年)
- 1907年(明治40年):任陸軍砲兵中佐、貞愛親王に随行して英国出張
- 1908年(明治41年)10月:英国大使館附武官補佐官兼駐在員取締
- 1910年(明治43年)参謀本部附
- 1911年(明治44年)帰朝、野砲兵第8聯隊長
- 1912年(明治45年)4月:朝鮮駐箚
- 1913年(大正2年)1月:陸軍砲兵大佐に任命される
- 1915年(大正4年)3月:第4師団参謀長の補佐となる
- 1917年(大正6年)8月6日:陸軍少将・基隆要塞司令官
- 1918年(大正7年):台湾総督府陸軍参謀長、支那公使館附武官
- 1922年(大正11年):陸軍中将・下関要塞司令官
- 1923年(大正12年):待命・予備役
- 1926年(大正15年)5月:朝香宮別当
- 1933年(昭和8年):後備役