関義臣
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| 関義臣 せき よしおみ | |
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| 生年月日 | 1839年12月15日 |
| 出生地 |
(現・福井県越前市) |
| 没年月日 | 1918年3月30日(78歳没) |
| 死没地 |
(現・東京都港区) |
| 称号 |
勲二等瑞宝章 従三位 |
| 子女 |
長男・関義寿 次男・関義長 |
| 在任期間 | 1897年12月23日 - ? |
| 在任期間 | 1899年4月7日 - 1902年2月8日 |
| 在任期間 | 1891年7月10日 - 1893年3月18日 |
| 在任期間 | 1872年8月23日 - 1873年5月29日 |
関 義臣(せき よしおみ、1839年12月15日(天保10年11月10日)[1] - 1918年(大正7年)3月30日)は、日本の武士・越前福井藩士、政治家。別名を山本龍二郎、関龍二。号は湘雲。正三位勲二等男爵。
1839年、福井藩の家老である本多家の越前府中(現在の越前市、旧武生市)領にて、本多家家臣・山本五郎の三男に生まれる。当初名乗っていた名前は山本龍次郎であった。嫡男ではないため、福井本藩の家臣であった山本家の分家で育つ。
藩校明道館に学び、幹事の橋本左内に認められて、文久2年(1862年)に昌平坂学問所に学んだ。1866年(慶応2年)、長崎の坂本龍馬を訪ねて亀山社中に加盟し、のちに海援隊に属した。この頃より「関龍二」を名乗る。直後に英国への渡航を行うが、長崎から出帆した船が台風に遭遇して遭難し、上海を経由して長崎に帰還した。その後は京都の越前藩屋敷に出仕するが、藩の中心人物らと上手く行かず、大阪などで新政府の官吏として活躍していたが、これは藩の許可は得ていなかった。
1868年(明治元年)には、大阪の舎密局で舎長を務めたが、新政府の中心人物らと福井藩の人物らとの間に軋轢が生じるようになると、新政府方で活躍していた関の存在は福井藩に疎ましく思われ始めた。身柄は福井藩士のままであった関は福井藩に呼び戻されるも応じなかったため、福井藩により捕縛され、福井に強制帰還させられ府中の兄の家に幽閉される。
1870年(明治3年)の武生騒動に関与したとして捕縛され、藩は死刑を求刑するも、新政府はこれを認めず、後に釈放される。
大阪府権判事をはじめ、鳥取県権令や宮城控訴院検事長、大審院検事、徳島県知事、山形県知事、貴族院勅選議員(1897年12月23日任)[2]などを歴任。1902年2月25日、錦鶏間祗候となる[3]。
1907年(明治40年)9月、日露戦争の功により男爵を授けられる。1918年3月、肺炎のため麻布一本松町の邸宅に於いて薨去。享年79。墓所は青山霊園。