東京ガスの熱量変更
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東京ガスでは設立以来、石炭を乾留した石炭ガスや石油(原油やナフサなど)を改質したガスやオフガス(石油化学コンビナートで排出される副産物のガス)などを原料に水素と一酸化炭素などを主成分とする合成ガスを供給し、その熱量は1㎥あたり3,600Kcal(1929年〈昭和4年〉12月25日以降のメートル法導入により設定)であった。1932年(昭和7年)4月20日に今までの㎥単位の課金から「熱位」と呼ばれる単位に応じて課金する熱位販売制を導入し、この際4,200Kcal/㎥にカロリーアップし、それを10熱位とした[1]。それに合わせ同年4月1日より器具の調整を行っている[2]。これが東京ガスの記録上最初の熱量変更であるが、その後1945年(昭和20年)6月20日に従量販売制に復元され、再び3,600Kcal/㎥の熱量を持つガスを供給した[3]。
しかし、高度経済成長によりガスの需要が急激に拡大し需要が工場や配管の設備の限界を上回ると想定されたため、1962年(昭和37年)4月から6か月かけて熱量を5,000Kcal/㎥とする熱量変更を行った[4]。この際は3,600Kcal用と5,000Kcal用の器具両方で燃焼させることのできる共通の燃焼域を持つ「調整ガス」を送出し[5]、その間に全顧客のガス器具を5,000Kcal用に調整し、それがすべて完了した1962年9月29日20時より5,000Kcalの新しいガスの送出に切り替えるというプロセスで事業を行った。同じガスを燃焼しても変更前の1.4倍の熱量を得られるようになったため、ガスの輸送力は向上した。この際供給が開始されたガスの規格名は「6B」と呼ばれた。
ところが、高度経済成長の更なる進展により首都圏では大規模な住宅開発が進み、6Bガスを以てしても需要が供給を凌駕し現有設備による供給が困難となるのは時間の問題であった。この時期の東京ガスエリアでは1年あたり40万件ものガスの新設工事受注を受けており[6]、さらに1家庭で使用されるガスの量や器具の数も増大し続けていた[7]。1962年の熱量変更により生じた供給のゆとりは1967年(昭和42年)ごろには既に限界に近づきつつあり、設備投資に莫大な費用を要し経営は逼迫化しつつあり、そして膨張を続ける首都圏にガスを安定供給を図るために近代的な製造・供給システムを構築する必要性が求められた[6]。また、これら石炭や石油を原料としたガスは硫黄分などの不純物を多く含んでいるため、製造や使用によって酸性雨や光化学スモッグなどの公害の原因となっていたほか、工場から排出される粉塵や騒音が近隣環境に悪影響を与えていた。
- 熱量変更を予告する広告(1932年2月16日)
- 熱量転換を知らせる広告(1962年9月28日)
- 熱量転換を知らせる広告(1962年9月29日)
LNGへの転換
東京ガスでは1960年(昭和35年)10月に都市ガスの原料としてメタンを主原料とする液化天然ガス(LNG)を導入することを日本の都市ガス会社で初めて決定した。天然ガスは高いカロリーを持つガスで世界各地に豊富な埋蔵量を持ち、政治情勢の安定した国からの供給が可能であるほか、不純物を含まずガス化も簡単であるため無公害であり、大量輸送・貯蔵が可能で石炭や石油を原料とした低カロリーのガスの抱える問題点を解決することが期待された[8]。折しも神奈川県横浜市磯子区の東京ガス根岸工場の隣接地に、東京電力(当時)が南横浜火力発電所の建設を計画しており、横浜市の公害規制をクリアするため当初計画していた重油専焼による発電を断念していたことから、東京電力と共同でLNGを導入し、根岸工場に受け入れ設備を建設することでコスト削減と公害基準のクリアを図ることとした[9]。LNG導入に合わせ、根岸工場の受け入れ設備整備に加え東京湾の対岸に位置する千葉県袖ケ浦市にもLNG受け入れ用の「袖ケ浦工場」を建設(1973年11月2日稼働開始)、天然ガスを供給する袖ケ浦工場を起点とした根岸工場との間を結ぶ東京都心の外周を大きく囲う全長約216kmの「天然ガス環状幹線」と東京湾の海底を横断し東京都江東区とを結ぶ全長26kmの「海底幹線」の2つのパイプラインも新たに建設された[10]。
これにより、供給するガスを工場で製造したガスからLNGを気化したものをそのまま送出する「メタンストレート供給」へと切り替えることとし、熱量は今までの5,000Kcal/㎥の2倍以上となる11,000Kcal/㎥へと高められガスの輸送力の大幅な向上が期待された。
13Aへの熱量変更事業

13Aは6Bとの共通の燃焼域がないことから、1962年の熱量変更時と異なり調整ガスを利用しての全社一斉での熱量変更が不可能になったのが課題となった。そのため、供給区域の需要家を3,000 - 3,500世帯を1単位とするの「セクター」と呼ばれるブロックに分割し、セクター単位で熱量変更を実施し13Aへの転換を実施する「地区分割方式」を採用して順次ガスの転換がすすめられた[5]。
1年間での作業スケジュールは、1月、2月に器具調査の実施、3月から12月末までの残りの約300日で休日を含め作業を実施する年間調整方式とし、1年間に100セクター(1セクターあたりの世帯数約3,500件、年間35万件)を550人の人員で行う予定とした[11]。調整員は東京ガス総合研究所内の「転換実習所」において、調整員4人に対し1人の指導員(トレーナー、先にカリキュラムを履修した調整員)をつけるグループ指導で約3か月にわたり様々な教育や研修を実施した[12]。
- 熱量変更プロセス
- 「セクター」の設定 - セクターは鉄道、幹線道路、河川などなるべく区分しやすい地点で大まかに区切ったのち、セクターごとの地域特性や人口増加度合いを分析したうえで、遮断バルブの設置時期を勘案し設定の概ね3年後までに1セクターの世帯数が3,000 - 3,500件となるよう想定し広さを確定させることにより設計された[11]。
- 遮断バルブの設置 - セクターを地図上で分割したのち、セクターの境界上にある低圧配管に遮断バルブを設置し、従来の6Bガスと新たに送出される13Aガスが混ざらないよう分割する。戦前に敷設された配管に関しては戦時中の混乱により導管の記録がない地域があり、数か月間にわたり実地調査を実施した。遮断バルブは初期に設置された一部を除き熱量変更の約3年前をめどに設置された。最初の遮断バルブは1971年(昭和46年)3月9日に日本国有鉄道(当時)大宮駅前に設置された[13]。
- 遮断テスト - 遮断バルブの設置後、設定したセクターが他のセクターと完全に独立するかを確認するため、遮断テストを実施した。遮断バルブの前後やセクター内の顧客の約1割の住宅に圧力計を取り付け、その後深夜にバルブを閉鎖したのちセクターの内外で圧力差が生じるか確認した。1セクターにつき圧力計の取り付けにかかる準備に1日、圧力計の取り付けとテストの実施で1日、圧力計の取り外しで1日、計3日間で行った。最初の圧力テストは1971年5月13日の深夜から翌朝にかけ、東大宮地区の住宅街で実施した[14]。
- ラインテスト - 13Aに転換された地域を避けて未転換地域に6Bガスが供給されるようになるため、ガスの流路が変わっても正常に供給が継続されるかを調査するテストを「ラインテスト」と呼んだ。まずコンピュータを用いて導管網解析を実施し、セクターごとにガスが安定して供給されるか、セクターごとの遮断によりガスの流路がどう変化するかをシミュレートし、ガスの流路の変更により圧力が低下する箇所において供給設備を増強すべき場所を把握した。その後、熱量変更が実施されるセクターにおいて実施時期の1年前の同じ月において最もガス使用量が多い時間帯に、セクターの境界線に沿った顧客宅に圧力計等の計器を設置しガスの圧力及び流量を調べ、セクター遮断時における影響を解析するためのデータを収集した。
- 器具調整の準備
- システム開発 - 器具調整の支援を図るために顧客のガス器具の設置状況や調整に必要な部品の把握や調達、作業員に対する作業分担といった器具調整に関するすべての情報を登録し作業指示や管理を行う「天然ガス転換システム(Natural gas conservation System/NS)」を1970年(昭和45年)より開発し、約250本のプログラムを作成し1972年5月より利用を開始した。さらに、業務用需要家が密集する都心部の作業の支援を図る「都心転換システム(Central area Natural gas conservation System/CNS)」も1976年(昭和51年)より利用を開始した。CNSはNSを発展させたシステムで、高層ビル等の特殊需要家や業務用需要家が集中する都市部において、地区ごとにことなる需要家の特性に対応した支援システムとして構成された。このノウハウは、後に大阪ガス、東邦ガスにも提供され同社の天然ガス転換にも活用された[15]。
- 器具調整方法の確立 - 数千種あるすべてのガス器具に対する分解・組立作業の手順を決定する必要があるため、東京ガス総合研究所内に1970年10月に「メタンストレート転換チーム」を組織してマニュアルの策定を進めた。最終的に家庭用2,533個、業務用1,010個のガス器具を集めたうえで、膨大な量のマニュアルが作成された。6B用のガス器具のバーナーは次の方法で13Aでの燃焼が可能なように調整した[16]。
- ガスの噴出孔(ノズル)の口径を縮小
- ガスが燃焼するバーナーの円孔を拡大
- パイロットバーナー、ストーブ用スケルトン、パッキング等の交換
- 器具調査 - 顧客宅にあるガス器具の器具名、メーカー名、種類、台数、器具コード、器具の設置状態、吸排気の状況、ガス漏れ警報器の有無などを、器具調整の6か月前までに調査しNSに登録する[17]。
- ガスの転換
- 器具調整 - 熱量変更の要となる作業で、1セクター内の全てのガス器具を13A仕様に調整する。3日間かけて実施されたが、業務用需要家は実質2日間で作業が行われた。一般家庭の需要家で実施された標準的なスケジュールは以下の通り。なお、給排気設備の点検や配管の漏洩検査、ガス栓への安全アダプターの取り付けなども併せて行った[18]。調整作業中は顧客には在宅するように求められ、万が一予定が合わない場合は顧客の都合に合わせて早朝や夜間の作業も実施された[19]。
- 1日目
- 3日間の作業説明と作業の打ち合わせ
- 所有器具の再確認と調整部品との照合
- 器具調整(台所の器具を中心に実施。ガスの切り替えまで調整された器具は使えないため、必要に応じ東京ガスから代替の器具を貸し出した。)
- 2日目(この日の午前に供給ガスの切り替え)
- 供給切り替え後、前日に調整した器具が正常に燃焼するかを検査した
- ガスメーターの検針
- 屋内管に残留する6Bガスのパージ
- 器具調整
- 3日目
- 器具調整(最終)
- 調査完了器具の交差検収
- ガスの安全性の説明
- 1日目
- 6Bから13Aへの切り替え - 供給するガスを6Bから13Aに切り替えるため、6Bガスを13Aガスの送出により追い出す「パージ」と呼ばれる作業を実行する。パージは以下のプロセスにより実行した。実行時間は3日間ある器具調整の2日目の、朝食の準備時間を考慮した午前8時30分から10時30分の間に行われた。この間ガスは使用禁止となり、その旨が1日目の器具調整の最後に顧客に伝達されたほか、作業実行中に巡回告知も行われた[20]。
- セクターの遮断バルブをパージ指令車の指示で一斉に閉鎖するのと同時に、13Aガスの導管バルブを開放し13Aガスを放出する。
- 「パージポイント」と呼ばれるガスの追い出し口から6Bガスをパージ(追い出し)し、ガスを燃焼させる。
- 炎の色や長さの変化により、13Aガスに変化したことを確認するとともに、遮断バルブ付近のガス圧力計が13Aガスの送出圧力に変化したこと、天然ガスの主成分であるメタンの濃度を確認することで、13Aにガスが置き換わったことを確認する。
- パージ指令車に各パージポイントのガス変化状況を報告し、すべての地点でガスが切り替わったことを確認し転換は終了。
- 器具調整 - 熱量変更の要となる作業で、1セクター内の全てのガス器具を13A仕様に調整する。3日間かけて実施されたが、業務用需要家は実質2日間で作業が行われた。一般家庭の需要家で実施された標準的なスケジュールは以下の通り。なお、給排気設備の点検や配管の漏洩検査、ガス栓への安全アダプターの取り付けなども併せて行った[18]。調整作業中は顧客には在宅するように求められ、万が一予定が合わない場合は顧客の都合に合わせて早朝や夜間の作業も実施された[19]。
- 再点検巡回 - 器具転換後1か月以内に再度顧客を訪問し、暖房器具等の点検、問診、一酸化炭素の検知、器具の燃焼状態の確認、安全使用のPRを実施した。
天然ガス転換の推移
天然ガス転換作業に先立ち、1968年(昭和43年)7月に本社に「メタンストレート供給委員会」を設け、熱量変更へ向けた方針を策定した。熱量変更の開始時期はLNGの輸入計画、袖ケ浦工場の完成時期、転換のための準備期間を勘案して設定された。熱量変更の開始箇所は根岸工場に近い神奈川県湘南地区から開始することも検討したが、工場の負荷の問題より袖ケ浦工場完成前は帝国石油のパイプラインをガス源として埼玉県内から開始するのが合理的とした。これらの方針は1969年(昭和44年)4月に委員会より答申され、6Bガスを供給する場合との費用対効果を比較した上、同年7月にメタンストレート供給を決定、同年9月に「メタンストレート供給本部」を設置し本事業の推進母体とした。初の転換は1972年6月30日より埼玉県上尾市西上尾地区で開始され、上尾市内の10セクターで実施された。1972年度はほかにも大宮市の全域・与野市と浦和市の一部(いずれも現在のさいたま市)も合わせ計33セクターにおいて、46,000件の需要家の15万個(約5,000種)のガス器具を調整した[21]。
転換は需要の増加著しい首都圏の外周の郊外部を第1期計画としてその区域は11年間かけてメタンストレート区域とすること、1975年(昭和50年)までに荒川以東、1976年(昭和51年) - 1982年(昭和57年)で多摩川以西と東京都下(多摩地区)の大部分(需要家の42.5%)を天然ガス化すること、転換のテンポは1年間につき約20万件、要員は500名を見込むこと、転換は1972年に埼玉県北部地区から始めることを基本方針とした[22]。
| 拠点名 | 開設時期(西暦) | 担当地区(自治体名は当時) |
|---|---|---|
| 浦和事業所 | 1972年4月 - 1973年4月 | 上尾市・大宮市・与野市(北側) |
| 千住営業所 | 1973年5月 - 1974年12月 | 1973年度 与野市(南側)・蕨市・戸田市・川口市・草加市・八潮市・三郷市・足立区・葛飾区 1974年度 北区・荒川区・墨田区・江戸川区 |
| 小平事業所 八王子前進基地 | 1975年1月 - 12月 1975年9月 - 10月 | 小平市・田無市・保谷市・清瀬市・新座市・東村山市・東大和市・東久留米市・立川市・八王子市・武蔵野市・三鷹市・調布市・府中市・国立市・日野市・多摩市・国分寺市・小金井市 |
| 原町田事業所 | 1976年1月 - 5月 | 町田市・稲城市・相模原市・川崎市多摩区 |
| 大船営業所 横須賀前進基地 | 1976年6月 - 12月 1976年5月 - 7月 | 鎌倉市・藤沢市・茅ヶ崎市・平塚市・大磯町・寒川町・綾瀬市・海老名市・大和市・逗子市・葉山町・三浦市・横須賀市・横浜市瀬谷区・戸塚区 |
| 北事業所(新宿) 板橋前進基地 鹿島田前進基地 | 1977年1月 - 1985年6月 1977年3月 - 6月 1983年6月 - 12月・1984年6月 - 11月 | 1977年度 和光市・板橋区・台東区・文京区(一部) 1978年度 豊島区・文京区(一部) 1979年度 江東区(一部) 1980年度 練馬区・中野区(北側)・新宿区(北側) 1981年度 杉並区・中野区(南側) 1982年度 世田谷区・杉並区(一部) 1983年度 渋谷区・新宿区(南側)・川崎市(多摩区以外)・横浜市鶴見区(一部) 1984年度 世田谷区(南側)・目黒区・川崎市(南部) 1985年度 大田区 |
| 南事業所(根岸) | 1977年1月 - 1978年10月 | 1977年度 横浜市磯子区・金沢区・中区・旭区(一部) 1978年度 南区・保土ヶ谷区・西区・神奈川区(一部) |
| 南事業所(新横浜) | 1978年10月 - 1980年4月 | 1979年度 横浜市旭区(一部)・神奈川区・鶴見区・港北区・緑区 1980年度 港北区(一部)・緑区(一部) |
| 豊洲事業所 | 1985年7月 - 1988年11月 | 1986年度 千代田区・港区(赤坂・芝地区)・中央区・大田区(南部) 1987年度 千代田区(丸の内周辺)・港区・品川区 1988年度 江東区(豊洲近辺) |
調整の紆余曲折
器具の調整には様々な困難も発生した。例えば日本住宅公団の住宅団地に普及していたバランス釜は維持管理に向かない構造であり、調整に時間を要した。ほかにも屋外設置型の風呂釜をコンクリートブロックで包囲している事例が散見され、3ポンドハンマーでブロックを破壊する事態が発生した。また顧客宅のガス器具は錆びつきや腐食により作業に手間取る事態が相次いだほか、初期には器具調査の精度が低く事前に配送された調整部品が使用できなかったり、器具調査は正しかったものの調整部品の仕様が異なっていたりして新規に手配を要するようなトラブルも相次いだ。顧客宅での作業は連日22時 - 23時にまでずれ込むことも多く、現場作業員と顧客どちらにも負担となった[23]。
1975年(昭和50年)ごろから熱量変更への反対運動が発生するようになった。第1次オイルショックの影響による原材料高騰やインフレーションを理由として東京ガスがガス料金の値上げを当時の通商産業省に申請したことが発端で、天然ガスへの転換を東京ガスの将来の利益のために行っているため、天然ガスへの転換が値上げの理由になっているとの疑義が生じたほか、天然ガスや熱量変更の安全性への不安や熱量変更の結果点火不良を訴える声が生じていたこと、熱量変更を理由としてガス機器の販売を強要しているとの主張が消費者団体から出され[24]、主に「旧料金で電気代を払う会」と名乗るグループが中心となって運動が展開された[25]。同年4月21日に国分寺市において調整ミスを原因とする死亡事故(後述)が派生したことから運動は過激化し、連日反対グループの構成員らによる現場基地への乱入やパージ作業妨害、調整用カバンの奪取、塗料の投げつけや投石が相次いだほか、5月28日には国立市で器具調整を拒否するユーザー宅のガスを遮断しようとした東京ガス作業員40人と市民グループ20人がもみ合いとなり、双方に負傷者が多数発生したほか東京ガスの作業車の窓ガラスが割られる事件が発生している[26]。
しかし転換の手法が「強引」とする意見や作業を不安視する意見は多かったため、東京ガスでは住民の要望に応じて説明会を開いたり[27]、顧客から寄せられる不安やガス器具の不調に対処するため、従前まで行っていた一部の顧客のみを点検する「抽出点検」を見直しすべての顧客を再訪問する方針への切り替え[28]、事故発生時の責任を負うことや器具故障時の修理を3か月以内は無料にすることなどを明記したうえで自治体と覚書を交わしたり[29]、東京ガス自体も熱量変更作業の見直しを実施し事前広報の徹底、提起された課題への積極的な対処や下取り制度の改善により次第に反対運動は落ち着き始め、激しい実力行使は1976年(昭和51年)3月に起きた明治大学生田キャンパスや町田市での作業、同年6月に起きた横須賀市での作業などを境に沈静化し、反対グループもかえって説得性を欠き孤立していくこととなった[30]。説明会の回数は約1,000回に上った[31]。
なお、東京都江戸川区小岩地区では京葉ガスと東京ガスの2社でガスが供給され、東京ガスの熱量5,000Kcal/㎥に対して京葉ガスは3,600Kcal/㎥と品質が異なっていた。1975年5月1日に京葉ガスの小岩地区の供給網が東京ガスに移管されたが、同供給網においては3,600Kcal/㎥のまま供給を継続し、1976年5月17日より順次11,000Kcal/㎥に熱量変更された[32]。
国分寺市での人身事故
1975年4月21日朝、東京都国分寺市南町の木造モルタル造のアパートにおいて、1階の部屋に設置されていたガス小型湯沸かし器の不完全燃焼を原因とする一酸化炭素中毒により、湯沸かし器が設置されていた部屋に居住していた夫妻が死亡、アパートのほかの部屋にも一酸化炭素が充満し住人16人が中毒となり、2人が重体、6人が入院した[33]。事故現場の湯沸かし器は換気扇を回していない状態でつけっぱなしにされていた形跡があったため、当初は利用者側の不注意のみが原因とされたが、同年4月25日に市民団体「東京瓦斯の公益性に疑惑を持ち料金支払いを見合わせる会」のメンバーが調整ミスが原因である主張し東京地方検察庁に東京ガスの社長らを殺人罪で告発した。
東京ガスの担当者は『朝日新聞』の取材に「国分寺の事故は状況などから見て天然ガス転換に関係あると思えない」と関与を否定[34]、翌月に立川市で開いた説明会では住民の質問に対し「国分寺の例は、湯沸かし器を密閉した部屋で長時間使ったため、酸欠による窒息死ということです。」などと回答するなどしていたが[27]、警視庁小金井警察署の捜査の結果、1975年3月5日に天然ガス用に再調整した際湯沸かし器のバーナーのノズルを規則より0.1mmほどやや大きく調整したためガスの流量が増加した結果不完全燃焼が発生したことが発覚、実際に調整ミスが発生していたことが立証され、当該ガス器具を調整した調整員は書類送検された[35]。
都市部への器具調整の開始
1976年末で供給地域の外周部にあたる郊外の熱量変更作業がほぼ終了し、1977年(昭和52年)より都市部(東京都心部から半径30km圏域)への熱量変更を開始した。
1977年に横浜市中心部の器具調整が行われたが、7月に実施された横浜中華街での機器調整は困難を極め、中華レンジのバーナーは何年も清掃されたことのないものが多くバーナーの清掃に多くの時間を費やすこととなった。午後から営業する店舗が多かったため午前中の限られた時間で実施された。炎に対してこだわりのある店舗が多く、炎の感じが変わるので料理に影響があるとして実際に卵焼きを作らせるなどの実験をさせられた調整員がいたという[36]。
1979年(昭和54年)度に熱量変更された日本国有鉄道(国鉄)上野駅構内の飲食店はその多くが24時間営業であったため、国鉄労働組合がストライキを行っている日に一晩かけて特別調整係を総動員し事前作業を実施した[36]。同年に作業が行われた東京大学本郷地区キャンパスは東京ガスの全需要家の中で最も多くの器具を保有し、その数は約15,000個に及んだ[37]。大学が夏休みの間に構内を4つのセクターに分割し200人近い調整員を動員して作業を完了させた[36]。
1983年(昭和58年)度からは最後に残された東京都心部での熱量変更を実施した。業務用需要家が大半を占め、ビジネス街、皇居、官公庁、大使館、歓楽街などその形態も多種多様であった。東京ガスでは「都心熱変対策委員会」を設け個別に対策を検討し、特に日程の策定にあたっては熱量変更の2年前から折衝を行ったこともあった。大型デパートや24時間営業の大型ホテルでは他の需要家から分離して作業を実施し、営業状況に合わせた個別の日程での器具調整を実施した[38]。歌舞伎町など歓楽街では、事前の器具調査時と器具調整を行う時との間で経営者が交代するなどして保有器具が変わる可能性があったため、営業時間中に事前に所有器具を確認したうえで調整部品と検分する作業を実施した[39]。
調整作業は午前中に実施するのが原則だったが、1983年に実施された京王プラザホテルの器具調整では深夜に120名の作業員を動員し、338台のガス器具を調整したほか、1986年(昭和61年)に実施したホテルニューオータニ、帝国ホテル、第一ホテル東京では午前0時、東京国際空港では午後11時からの調整を実施した。同年5月25日には皇居での熱量変更が実施された。皇居への作業に先立ち、宮内庁から警備や事故の懸念から作業は「天皇陛下のお留守の間」に済ませるように指示があり、東京ガスでは約70人体制の作業チームを編成し準備を進め、昭和天皇が行幸に出るタイミングを狙い1日で作業を完了させることとした[40]。皇居での作業にあたっては職員の指示に従って作業すること、物には触れないこと、野草を踏まないこと、当日の人員・車両は極力少なくすること、私語は極力慎むこと、当日は他のブロックには移動しないことなどが求められた[41]。
都市部での器具調整にあたっては外国人ユーザーの対応も課題となった。1977年に実施された横浜市での熱量変更では本牧地区の外国人住宅の集中地域で作業が実施され、外国製器具の構造や調整方法の教育の実施や英文のチラシや応答パンフレットの作成などの対策を講じ、調整員はジェスチャー交じりの片言英語を用いたり、英語の通じないフランス人やロシア人宅に困惑したりしながらも作業が実施された[36]。1987年(昭和62年)度に実施された熱量変更では港区を中心に1,406件の外国人需要家が在住し、需要家の母国語に翻訳したPR文書の作成や通訳の依頼、調整員の英会話講習や器具調査時に収集した情報をもとにした事前の調整の徹底を通じ、トラブルなく作業を完了させた。作業のやりとりを英語で翻訳した「対話集」と称するマニュアルも用意され、なかには一言も話さずにマニュアルの英文を指差して顧客に指示をして調整を完了させた調整員もいたという[42]。