東京の鉄道網計画は、イギリス人技術者であるリチャード・ボイルの報告書(1876年)が発端となっている。日本鉄道は1883年に上野駅と熊谷駅の区間を開業した。その後、東京の西からのターミナル駅であった新橋駅と上野駅を接続させるとともに、東京の中心駅となる中央停車場(現在の東京駅)を建設する計画が立案された。当時、新橋駅と上野駅の間は住宅が密集しており馬車鉄道(東京馬車鉄道)が敷設されていたが、蒸気機関車による運行は反発が強く困難であり、さらにそれと並行して東京市の中心となる中央駅の設置が検討されてきた。
1884年に内務省が主管となり市区改正意見書をまとめ、市区改正委員会を設置し、1889年3月に市区改正委員会は最終報告である「市区改正設計案」を内務大臣に提出した。これは、(1)上野~新橋間の接続、(2)高架橋による建設、(3)中央停車場を設ける、ということが示された。翌年には市区改正事業 正式に認可され、内務省が主導的に検討を進める事業体制が整った。日本鉄道は上野駅と秋葉原駅の間に平面鉄道を建設していたが、住民などから反発があり、日本鉄道は、当時九州鉄道の技術顧問として来日していたドイツ人技術者ヘルマン・ルムシュッテルを招聘して計画を策定させた。
当時、逓信省の技術者である仙石貢を日本人技術者として計画策定にあたらせたが、仙石が多忙であることから広川広四郎を指名し計画策定にあたらせた。広川広四郎は工部大学校を主席で卒業した優秀な技師であったとされる。
しかしながら、ヘルマン・ルムシュッテルと広川らの当初の計画は成案を見ることがなく、1897年にルムシュッテルの案を基本とし、 日本鉄道から再度事業が申請され予算化された。官側の設計は進んでいなかったため、翌年にドイツ人技術者フランツ・バルツァーが来日し、日本人鉄道技術者とともに高架橋の具体的な設計を取りまとめた。
ルムシュッテルの案は、ドイツのベルリンの市街地のレンガ造りのアーチ橋を基本とした高架橋として、その設計を基本に市街高架鉄道が建設された。また中央停車場はベルリン市のフランクフルト駅(現在のベルリン東駅)の頭端式ターミナルと、ベルリン市街地縦貫鉄道(現在のSバーン)の構造を組み合わせた構造として、現在の東京駅の線路配置の基本となった。
広川広四郎は東京市街高架鉄道と中央停車場の計画に携わっていたが、1896年に計画作業従事中に突如倒れ急死した。広川広四郎を記念して、出身地の新潟県長岡市飯塚に記念碑[3]が建てられ、その蔵書は中山秀三郎が友人代表として工部大学校の後継である東京帝国大学図書館に寄贈された[4]。
廣川学士之碑
従二位位勲一等子爵野村靖篆額 廣川廣四郎誌
廣川廣四郎ハ元治元年九月十三日ヲ以テ飯塚村ニ生ル明治二十二年七月工学大学ヲ卒業シテ工学士ノ称号ヲ得尋テ鉄道事業ヲ研究セントシ大学院ニ入リテ其業ヲ終フ九州鉄道会社技師東京市水道技師等ニ聘セラレ又逓信技師兼逓信省鉄道技師ニ任シ正七位ニ叙セラル其間鉄道事業調査若クハ監査ニ因リ□蹟殆ド海内ニ遍シ人其勉励ニシテ且庸直節倹ナルヲ称ス明治二十九年十月二十三日病テ東京ニ没ス是ヨリ先鉄道事業視察ノ為メ欧米行ヲ命セラル益シ主トシテ東京市街高架鉄道及中央停車場設計調査ニ係レリ未ダ発スルニ及バスシテ忍□長逝セリ享年僅ニ三十三遺骨ヲ飯塚村明鏡寺ノ墓地ニ葬ル親戚故友相謀リ翌年此碑ヲ建ツト云
中静義達書 ※□は判読不明