実子がなく、弟(義冬四男)の東条冬貞を養子にしていたが、宝永元年(1704年)に死去したため、柘植氏から東条義武(義武の母荒川氏が吉良家庶流の出身)を養子として迎え、東条家を継がせた。なお、弟の義孝も別家「東条家」を立てているが、義孝流東条家はまもなく断絶する。
吉良家は赤穂事件によって断絶していたが、享保17年(1732年)、東条義武の養子・義孚が吉良姓への復姓を希望して許された。高家の格式は認められなかったものの、御書院番に代々任じられている[2]。
一方、武蔵吉良氏(前期東条家[3]のち奥州管領家)の末裔である高家の蒔田家[4]も、宝永7年(1710年)に吉良姓の復姓を希望して許されている。なお、こちらが「高家吉良家」として残ることになる。