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東洋学芸雑誌

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『東洋学芸雑誌』(とうようがくげいざっし、旧字体: 東洋學藝雜誌)は、1895年に創刊され、1930年まで月刊誌としての刊行が継続された、日本初の学術総合雑誌[1]。全567号[2]。

初期には文学作品なども掲載されたが、1890年代半ば以降はもっぱら科学啓蒙誌となっていった[1]。

版元は当初東洋学芸社だったが、後に東京社→興学会と移行[2]。版元の移行に伴い、1922年4月の第39巻(487号)以降は『學藝』と改題されたが[3]、興学会に版元が移った1925年5月より元の『東洋学芸雑誌』に題名を戻している[2][4]。

概要

1881年10月に創刊され、1930年12月の廃刊までに合わせて567冊が刊行された[1]。イギリスの『ネイチャー』誌を手本に構想されたものであり、創刊号巻頭の緒言には、次のように創刊の趣旨が記されていた[5]。

我邦人ノ理学ノ思想ニ乏シキハ識者ノ大ニ憂フルトコロナリ然レトモ之ヲ救フノ術ニ致ツテハ講ズルモノ殆ンドアルコトナシ ... 今茲ニ理学ニ関係アル文章ヲ刊行シ世人ニ其性質及ヒ巧用ヲ知ラシメ以テ時弊ヲ救フノ一助トナスト云爾

編集にあたったのは、杉浦重剛、千頭清臣らであり、井上哲次郎、磯野徳三郎らも協力したとされる[1]。雑誌構想の契機は、1880年にイギリス留学から帰国後、療養生活を送っていた杉浦へ、親戚でもあり旧知の仲であった千頭から、新雑誌を創刊したいという趣旨の書簡であった[6]。同人として、おもに東京大学文科の出身者であった福富孝季、井上哲次郎、磯野徳三郎が加わって創刊の準備が始まったが、後には外山正一、菊池大麓、矢田部良吉ら、当時の東京大学の教授たちも同人に加わった[6]。

初期には文学作品もしばしば発表されており[1]、1880年代のうちに刊行された第99号までの範囲を分析した渡辺正雄と尾世蓉子の調査によると、掲載記事の61%が自然科学に関するものではあったが、社会科学が19%、人文科学が20%を占めていたという[5]。

菊池大麓の数学論文や、櫻井錠二の化学論文など、専門的論文が掲載される一方で、理科教育の先駆者とされる後藤牧太が多数寄稿するなど、広く自然科学的な内容が掲載されたのみならず、矢田部良吉や、英語学者・井上十吉らの随筆、さらには漢詩や新体詩などまで多様な内容が取り上げられていた[5]。

社会進化論の議論を展開していた当時の東京大学総長・加藤弘之は、『東洋学芸雑誌』にもしばしば寄稿し、さまざまな議論を呼び、「この雑誌の売りのーつであったと恩われる」と評されている[7]。

森鴎外による、ヴィルヘルム・ハウフの童話「隊商 (Die Karawane)」の一部に基づいた漢詩「盗侠行」は、井上哲次郎が若干の修正を加えた上で、鴎外のドイツ留学中に「森林太郎」名義で『東洋学芸雑誌』第40号(1885年1月)に掲載されたが、これは鴎外の最初の文芸作品と見なされている[8]。

南方熊楠は、1880年代半ばに東京大学予備門に在籍していたころから『東洋学芸雑誌』を愛読していた[9]。

復刊

2011年、大空社出版が全567号を収録したDVD-ROMを発売している(ISBN 978-4-283-00778-9)。

脚注

参考文献

外部リンク

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