後藤牧太
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三河国宝飯郡出身。
1868年(慶応4年)に慶應義塾に入学。翌年、下谷医学校に勤めたが、ほどなく慶應義塾に戻って勉学を続け、後には義塾の教員も務めた。
1872年(明治5年)生徒として通っていた英語塾のクリストファー・カロザースを慶応義塾の講師として紹介している。
1877年(明治10年)に東京師範学校雇教師、次いで同校訓導となった。
1881年(明治14年)には教諭に就任。
物理学の著書を多く執筆しており、1885年(明治18年)には、弟子であり当時群馬県師範学校の教諭であった滝沢菊太郎、篠田利英、柳生寧生とともに、簡易器械を用いた実験を中心とする教科書『小学校生徒用物理書』を出版した。
1887年(明治20年)からイギリス、スウェーデンに派遣され、帰国後は高等師範学校(筑波大学の前身)教授となり、
1914年(大正3年)7月に退官し東京高等師範学校名誉教授となった[1]後も、没するまで講師として同校に勤務した。
明治16年(1883年)の大日本教育会結成より会員として参加し、大日本教育会・帝国教育会で32年間評議員を務め、名誉会員となる。また辻新次、湯本武比古、高津鍬三郎などと共に言文一致会を結成。帝国教育会の國字改良部の羅馬字書方取調委員の筆頭として、小西信八と共に国字改良に携わり、「かなのくわい」の有力者として活動した。
明治38年(1905年)慶應義塾評議員となる。
明治43年(1910年)当時千里眼として透視できるとされていた御船千鶴子に対し、理化学における実験重視を唱えた立場より、「かような封じ方では實驗が實驗とならない千鶴子の能力について斷定を下すに足るほどの實驗とわならない」と懐疑的な見方を示している。
墓所は多磨霊園(6-1-16)
栄典
著作
- 「三十年前の慶応義塾」(『教育時論』第635号、開発社、1902年12月)
- 「修学旅行の始まり」(『教育』第344号、茗渓会、1911年10月)
- 「義塾懐旧談」(『三田評論』第229号、慶応義塾、1916年8月)
- 「新銭座から三田時代まで」(『慶応義塾誌』 慶応義塾誌編纂部、1922年)
- 「戦後に於ける我国の理科教育」(『現代教育』第52号、現代教育社、1917年11月)
- 「留学生時代の思い出」(『科学知識』第4巻第8号、科学知識普及会、1924年8月)
- 著書・編書
- 『幻燈写影講義』 聚星館、1880年2月
- 『簡易器械 理化学試験法 巻一』 三宅米吉同著、普及舎、1885年10月
- 『小学校生徒用物理書』 篠田利英、滝沢菊太郎、柳生寧成共著、普及舎、1885年11月巻之上・巻之中・巻之下
- 海後宗臣編纂 『日本教科書大系 近代編第二十二巻 理科(二)』 講談社、1965年12月
- 板倉聖宣ほか編著 『理科教育史資料 第2巻 理科教科書史』 東京法令出版、1986年10月 - 抄録
- 『小学校生徒用物理書』 数理設計研究所、2019年1月、ISBN 9784990469115
- 『物理学初歩』 篠田利英、滝沢菊太郎共著、普及舍、1898年3月
- 前掲 『理科教育史資料 第2巻 理科教科書史』 - 抄録
- 『物理学教科書』 根岸福弥共編、大日本図書、1898年4月
- 『改訂 物理学教科書』 根岸福弥共編、大日本図書、1906年12月
- 『理化示教』 根岸福弥共編、集英堂、1899年2月
- 前掲 『理科教育史資料 第2巻 理科教科書史』 - 抄録
- 『物理学教科書問題集』 根岸福弥共編、大日本図書、1901年7月
- 『中等物理学』 根岸福弥共著、大日本図書、1902年12月
- 『物理学課本』 東亜公司、1907年8月
- 『誰にもできる 物理の実験』 長風社、1911年11月
- 日本科学史学会編 『日本科学技術史大系 第9巻 教育2』 第一法規出版、1965年12月 - 抄録
- 『新編 物理学教科書』 大日本図書、1914年10月
- 『新撰簡易物理実験集』 滝沢賢四郎共著、金港堂書籍,、1920年10月