井上十吉
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阿波国徳島藩に井上高格の次男として生まれ[1]、藩主の命により江戸に出て明治4年(1871年)慶應義塾に入学(『慶應義塾入社帳」第一巻487頁)。同塾卒業後の明治6年(1873年)、旧藩主蜂須賀茂韶に選抜された7人の留学生の1人として随行し、イギリスに渡る。一行のうち最年少だった[2]。
1873年にロンドンの小学校に入り、1878年卒業、ラグビー校初の日本人生徒として進学し、成績優秀のため賞と年金を獲得[2]。1879年にロンドン大学のキングス・カレッジに進み、1881年に王立鉱山学校(en:Royal School of Mines)に転校して採鉱冶金学を治め、翌年卒業[2]。
明治16年(1883年)帰国し、院内銀山の技師に命ぜられ、団琢磨とともに秋田に向かったが、同行していた助手らに途中で荷物を持ち逃げされ、団と別れて一人帰京、鉱山業界を離れる決心をする[3]。
翌年、杉浦重剛の紹介で東京大学理学部で実験助手、1886年に第一高等中学校教師となり、最初は数学を教えたが、日本語がよく話せなかったため英語教師に転じ、1893年に退職[3]。この間、学習院、高等師範学校、東京高等商業学校などでも教えた。教え子には、神保格、渡辺半次郎、佐川春水、山県五十雄らがいる。
教師退職後、横浜のジャパン・ガゼット紙の記者となるも、日清戦争勃発時に英人主筆のヘンリー・テナント(Henry Tennant, 1864-1899[4])の反日的論調に憤慨して辞職し[3]、杉浦重剛の紹介で明治27年(1894年)に外務省の翻訳官に転じた。この頃より英文著作や翻訳を多数刊行しはじめる[3]。明治31年(1898年)には、公使館2等書記官になりベルギー、アメリカ合衆国、スウェーデン等、西欧各国に駐在。
大正7年(1918年)に著述に専念するために退官し、大正4年(1915年)9月10日に『井上英和大辞典』を編纂。大正10年(1921年)1月2日には『井上和英大辞典』を編纂するなど10余種の辞典を作成した他、初めての英語教科書を発行した。「英語講義録」による通信教育を日本で初めて試みた。また、日本文化の海外紹介にも努め、英訳『仮名手本忠臣蔵』などの翻訳も多数手がけた。
家族
- 祖父・井上高超 - 徳島藩士。第13代藩主蜂須賀斉昌の奥小姓[5]
- 父・井上高格
- 母・宮城ウタ - 高格の妾。高格の正妻・益には子がなく、十吉含め三兄弟の生母はともにウタ。[5][6]
- 兄・井上省三(1861-1891) - 英国留学後、東京英語学校、二高で教師となったが早世。寡婦となった妻・ふくは大槻文彦の後妻となる。[6][5]
- 弟・柴山丈男 - 実業家(京都・鶏肉料理店「喜良久」経営)。子に井上通信英語学校創設者の柴山格太郎。[6][7]
- 養父・林厚徳 - 父・高格のいとこ。のち復籍。[6]
- 妻・シマ - 三男二女を儲けるも、1908年離婚。[8][9]
- 三男・井上当蔵(1901-) - 井上英語会話スクール創始者。1923年に英国留学し、1930年にキーブル・カレッジ (オックスフォード大学)卒業。帰国後高校教師を経て1936年に自身のスクールを開校。妻の文子は薬種商で資産家の喜内健造の長女に生まれ、津田塾大学、ミシガン大学卒業後、セント・ヒューズ・カレッジ(en:St Hugh's College, Oxford)で古代中世英語を学んだ。[8][9]
- 曽孫・井上真紀
栄典
著作
- 『和尺牘書法』、吉岡商店、1887年。
- 『中等応用会話』松田晋斎 編、井上十吉 校閲、ミューゼアム会、1892年。
- 『ロングマンスリーダー』講述、成美堂、1898年9月。第3版第4註釈。
- 『英語難問一千題詳解』成美堂、1899年。
- 『英語質疑応答詳解』井上十吉 応答 ほか、成美堂、1899年。
- 『井上英文典』金港堂、1904年。
- 『和英辞典 : 新訳』井上十吉 編、三省堂、1909年。
- 『Home life in Tokyo』古作勝之助、1910年。
- 『井上和文英訳』至誠堂書店、1917年。
- 『井上英語講義録規則及講義見本』講述、井上通信英語学校、1926年。
- 『Inouye's English correspondence school readers』third reader(第3巻)、井上通信英語学校、1926年。
