井上十吉

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井上 十吉(いのうえ じゅうきち、文久2年10月28日1862年12月19日) - 昭和4年(1929年4月7日)は、明治期の英語学者和英辞典編纂者、官吏ヘボンの影響を脱した最初の和英辞典である『新訳和英辞典』を完成させた。

1900年に受勲したレオポール勲章シュヴァリエ章(ベルギー)

阿波国徳島藩井上高格の次男として生まれ[1]、藩主の命により江戸に出て明治4年(1871年慶應義塾に入学(『慶應義塾入社帳」第一巻487頁)。同塾卒業後の明治6年(1873年)、旧藩主蜂須賀茂韶に選抜された7人の留学生の1人として随行し、イギリスに渡る。一行のうち最年少だった[2]

1873年にロンドンの小学校に入り、1878年卒業、ラグビー校初の日本人生徒として進学し、成績優秀のため賞と年金を獲得[2]。1879年にロンドン大学キングス・カレッジに進み、1881年に王立鉱山学校(en:Royal School of Mines)に転校して採鉱冶金学を治め、翌年卒業[2]

明治16年(1883年)帰国し、院内銀山の技師に命ぜられ、団琢磨とともに秋田に向かったが、同行していた助手らに途中で荷物を持ち逃げされ、団と別れて一人帰京、鉱山業界を離れる決心をする[3]

翌年、杉浦重剛の紹介で東京大学理学部で実験助手、1886年に第一高等中学校教師となり、最初は数学を教えたが、日本語がよく話せなかったため英語教師に転じ、1893年に退職[3]。この間、学習院高等師範学校東京高等商業学校などでも教えた。教え子には、神保格渡辺半次郎佐川春水山県五十雄らがいる。

教師退職後、横浜のジャパン・ガゼット紙の記者となるも、日清戦争勃発時に英人主筆のヘンリー・テナント(Henry Tennant, 1864-1899[4])の反日的論調に憤慨して辞職し[3]、杉浦重剛の紹介で明治27年(1894年)に外務省の翻訳官に転じた。この頃より英文著作や翻訳を多数刊行しはじめる[3]。明治31年(1898年)には、公使館2等書記官になりベルギーアメリカ合衆国スウェーデン等、西欧各国に駐在。

大正7年(1918年)に著述に専念するために退官し、大正4年(1915年)9月10日に『井上英和大辞典』を編纂。大正10年(1921年)1月2日には『井上和英大辞典』を編纂するなど10余種の辞典を作成した他、初めての英語教科書を発行した。「英語講義録」による通信教育を日本で初めて試みた。また、日本文化の海外紹介にも努め、英訳『仮名手本忠臣蔵』などの翻訳も多数手がけた。

家族

栄典

英文で日常生活を紹介した著書『Home Life in Tokyo』(1910年)
外国

著作

脚注

参考文献

関連項目

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