東門明 From Wikipedia, the free encyclopedia 国籍 日本生年月日 1952年没年月日 1972年7月14日(満19歳没)投球・打席 右投右打東門 明基本情報国籍 日本生年月日 1952年没年月日 1972年7月14日(満19歳没)選手情報投球・打席 右投右打ポジション 三塁手、二塁手経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) 武相高等学校 早稲田大学 この表について この表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。 ■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 東門 明(とうもん あきら、1952年 - 1972年7月14日)は、アマチュア野球選手(内野手)。 茅ヶ崎市立松浪中学校から武相高等学校に進み、投手として甲子園を目指すも、1970年(昭和45年)夏の甲子園神奈川県予選準々決勝で、甲子園出場の東海大相模に敗れる(東海大相模は同夏の甲子園大会で全国制覇を果たす)。同期には菅野光夫、1学年下に根建忍と金島正彦がいた。 1971年(昭和46年)、一般入試で早稲田大学教育学部に進学、同校野球部に所属する。高校の卒業文集には「我が青春に悔いはなし」と書き記した。打力を生かすために内野手へ転向し、2年春に三塁のレギュラーを獲得(背番号9)。リーグ戦での活躍(35打数14安打、打率.400〈リーグ6位〉1本塁打)により、第1回日米大学野球選手権大会日本代表に選出される。 1972年(昭和47年)7月9日、明治神宮野球場で行なわれた同大会第2戦にて、7回に代打で登場し三遊間へのヒットで出塁する。1死後、藤波行雄(中央大学、のちに中日ドラゴンズ入り)の二塁ゴロの際、米国代表の遊撃手アラン・バニスター(英語版)の併殺狙いの送球を頭部に受けて倒れ、退場する。その時点では意識があったが、その後嘔吐の症状を示したことから慶應義塾大学病院に搬送される[1]。右側頭骨骨折による頭蓋内出血および脳挫傷と診断された。5日後の7月14日11時35分、19歳で死去。大会終了後の7月20日、早稲田大学の大隈講堂にて「お別れの会」が開かれ、両チームの関係者などが参列した[2]。日本代表選手として出席した山口高志(当時関西大学野球部)によると、バニスターは東門の両親の前で長く頭を下げていたという[2]。 代表メンバーとして着用していた背番号13は、日米大学野球選手権日本代表の永久欠番とされ、早稲田大学野球部でも、東門の背番号9を永久欠番とした。 プロ入り時のパンチ佐藤は、尊敬する高校の先輩である東門の早稲田時代の背番号「9」を望んでいた。しかし、当時の主力選手だった本西厚博が付けていたため断念している。代替として足すと9になる背番号「45」を選んだ。 脚注 [脚注の使い方] ↑ 鎮勝也『伝説の剛速球投手 君は山口高志を見たか』講談社、2014年、p.46 1 2 鎮勝也『伝説の剛速球投手 君は山口高志を見たか』講談社、2014年、pp.47 - 48 関連項目 現役中に亡くなったプロ野球選手の一覧 レイ・チャップマン - MLB選手。試合中に投球を頭部に受けたことが原因で死亡。 ハルトフ・ハンバーガー - オランダのプロ野球選手。試合中にライナー打球が直撃したことが原因で死亡。 久慈次郎 - 日本の社会人野球選手。試合中に牽制球を頭部に受けたことが原因で死亡。久慈は東門と面識は無いものの早稲田大学の先輩にあたる。 マイク・クールボー - マイナーリーグAA級コーチ。試合中にファウルボールを頭部に受けたことが原因で死亡。 表話編歴 野球日本代表 - 1972年日米大学野球選手権大会監督 達摩省一 コーチ 大戸洋儀 宮井勝成 投手 山口高志 森部繁幸 藤田康夫 萩野友康 中村憲史朗 上田芳央 捕手 米谷延夫 中沢邦男 田中昭雄 内野手 山本功児 坂口雅久 吉沢敏雄 東門明 山口円 山下大輔 外野手 生田啓一 長崎慶一 伊達泰司 池田和雄 藤波行雄 Related Articles