松下繁二
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明石中学では、1932年春、1932年夏、1933年春、1933年夏、1934年春の計5大会に出場。1933年夏の甲子園では、準決勝で中京商業学校との延長25回の死闘に三塁手として先発出場していた(ただし、松下自身は4回裏に永尾正巳と交代し退いている)。卒業後は、法政大学に進学し、5番打者として活躍。
大学卒業後、明石中学時代からのタニマチの1人であった田野の勧めにより、1941年に阪神軍に入団[2]。1年目ながら5番レフトに定着すると、8月18日の巨人戦にて新人ながら、タイガース第15代4番打者に起用された[3][4]。同年は63試合に出場するが、シーズン終了後に召集され[2]、中国大陸[5]で戦死した(没年月日・死没場所は不明)。
死没場所や遺族のありかなどについては長らく不明な点が多かったが、2025年になって田野のひ孫にあたる堀井和人の家から松下の直筆手紙が発見され、そこから遺族も発見[5][6]。それにより満州国浜江省に配属されていたこと、1944年3月に一時復員していたことなどが新たに明らかとなった[5][6]。