松山戦争
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元治元年12月(1865年1月)に関東を劫掠していた水戸藩天狗党の乱が鎮圧された後、水戸藩の藩政は市川弘美ら中心とする諸生党が掌握し、水戸に居た天狗党の関係者は諸生党によって次々と処刑された。
ところが翌年将軍徳川家茂が死去すると、天狗党本隊のうち武田金次郎ら遠島に処される予定であった者共が赦免され、さらに孝明天皇崩御の後、天狗党と共謀関係にあった長州藩が鳥羽・伏見の戦いで勝利すると、天狗党・本圀寺党の訴えにより諸生党が一転して朝敵に指定された。このため市川ら諸生党は水戸を脱出して北越戦争・会津戦争に参戦したものの、これらの戦闘は新政府軍の勝利に終わる。行き場を失った諸生党は起死回生を狙って水戸城奪還を図り藩校弘道館を占拠したが(弘道館戦争)、敗れて下総方面へと逃走した。