松本文三郎
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- 出生から修学期
1869年、加賀国金沢(現・石川県金沢市)で生まれた。帝国大学文科大学文学部で学び、1893年に卒業。
- 哲学研究者として
1894年9月、立教学校(現・立教大学)教授に就いた[4]。1899年、ドイツに留学[3]。同年、文学博士号を取得。
第一高等学校教授を務めたのち、1906年に京都帝国大学文科大学(現・京都大学文学部)の開設委員となり[2]、同大学インド哲学史教授に就任。1908年から1915年まで、同大学第2代学長を務めた[2]。その後も引き続きインド哲学史講座担当教授として教鞭を執り続けた。1919年に文科大学が文学部に改称されると、初代文学部長に就いた[3]。1929年に京都帝国大学を定年退官し[5]、名誉教授となった。
1919年より帝国学士院会員[6]。1938年には東方文化研究所の所長に就任するなど、終始して徳望高き学界の重鎮として知られ、卓越した研究活動の組織者でもあった[5]。1944年、気管支カタルのため京都銀閣寺の自宅で逝去した[3]。
研究内容・業績
- 世間一般では宗教と道徳は常識的に理解されているが、科学的に研究すると困難な問題であると指摘している。西洋の学者がキリスト教を規範とする誤解を指摘し、比較宗教学的な研究の必要性を説いている[7]
- 原始仏教は「苦」の世界観から始まるが、単なる厭世観ではなく、苦の原因(集諦)を人間の欲(無明)に帰し、その苦を滅する(滅諦)ための実践道(道諦、八正道)を説いていると解説している[8]。
- 八正道(正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定)は、知識、行為、修行の方法を含んでおり、特に「正命」の概念を通じて、当時の僧侶の生活様式(非肉食主義など)が修行において重要であり、道徳的にも大きな影響を持つと論じている[9]。
- 仏教の最終目的である涅槃や解脱は、苦痛の無くなった無為の状態ではなく、感覚や苦楽を受け入れつつも執着しない「自由自在」な境地であり、これは孔子の「七十にして心の欲する所に従いて矩を踰えず」という境地と類似しており、道徳の究極の目標と一致すると主張している[10]。
- 宗教と道徳は非常に密接な関係にあるが、以下の3点で区別できるとしている[11]。①道徳は社会(国家)を通して自己を実現する社会的性質を持つ一方、宗教は社会から独立した個人的性質を持つ。②道徳は完全な状態(無道徳界)に達すると無くなるが、宗教は完全な状態に達してからが真の宗教的生活の始まりである。③道徳は個人の意思に基づく「自力」のみであるが、宗教は「自力」と、神や超越者への帰依といった「他力」の両方の手段を認めている。
- 「日本大蔵経」の編集、インド・中国の仏教遺跡調査にあたった[12][13]。
- 『印度の仏教美術』では、インドで誕生した仏教美術が、いかにして東洋諸国へ伝わり、各地でどのような変遷を遂げたのかを説明した。従来の東洋美術史の研究では、インドと日本、中国が個別に論じられることが多く、両者間のつながりや影響関係が不明確であるという「一大欠陥」が存在すると指摘した。印度美術は、インド哲学や宗教思想に基づいた普遍的な特質を持つとして、インド美術の特質を「観念的(Idealistic)」「超越的(transcendental)」「象徴的(symbolic)」「神秘的(mystic)」の四語で要約した。これらの特質は、ウパニシャッド以来のインド思想、すなわち「涅槃」や「空」といった絶対平等無二の境地(無分別智・正智)を理想とする思想から来ているとし、美術作品においては、写実的な美しさよりも、この思想をいかに表現できるかが最上の作品の基準となるとしている。そして、仏教美術を他のインド宗教美術と区別する最も重要な点は、「慈悲」(利他行、他者救済の精神)の観念が濃厚に表されている点とし、仏教美術を鑑賞する際には、意匠の巧みさや写実の技術だけでなく、これらの「観念的・超越的・象徴的・神秘的」な性質、とりわけ「慈悲」の精神が表現されているかに注目することが重要だと論じている[14]。
- 一般的な宗教、特に仏教やキリスト教は、人世の苦根を絶ち、物質的・肉体的な苦痛だけでなく精神的な苦痛も取り除き、永久の平和を実現することを目的としていて、仏教は「忍辱」の無抵抗主義を唱えたことは事実であり、殺生は最も重大な罪過としている。しかし、仏陀自身は、国際間の戦争を永久に廃止すべきか否かという問題に関しては一言も触れていない。仏陀は、世間一般の国際平和ではなく、あくまで精神的な平和の実現を説き、政治的な問題には直接介入しない超然とした態度を貫いた。後に阿育王が仏教に帰依し、戦争を深く反省して非戦の姿勢を示した例は、仏教の教えを政治に応用した結果であり、仏教は普遍的な平和の精神を説くものの、政治的な戦争の絶対的な禁止を直接教義として定めているわけではなく、あくまで個人の精神的解脱と平和を追求するものであるとしている[15]。
- 叡南祖賢(のち千日回峰行大行満大阿闍梨、執筆当時は稲田祖賢)が1930年(昭和5年)に執筆した天台宗西部大学専修院の原稿用紙2,000枚の卒業論文『台密諸流史の研究』について、「きちんと考証すれば学位論文になる価値は十分」と評した[16][17]。
- 京都国立博物館に収集したコレクションが収められている(京都国立博物館が所蔵する書跡の基盤となった3つの1つ:守屋孝蔵コレクション・上野理一コレクション・松本文三郎コレクション)[18]。
- 花まつり - 言葉の起源とされる、1901年にベルリンで催された「Blumen Fest(ブルーメンフェスト)」の発起人の一人。
著作
著書
- 『近世哲学史』 哲学館 1894年
- 『心理学講義』 明治講学会 1895年
- 『心理学』敬業社 1897年
- 『最近哲学史』哲学館 1898年
- 『哲学概論』 哲学館 1899年
- 『純正哲学 : シオペンハワー哲学提要』 哲学館 1900年
- 『認識論提要』 哲学館 1901年
- 『印度雑事』六盟館 1903年
- 『仏典結集 仏教史論』文明堂 1903年
- 『極楽浄土論』金港堂 1904年
- 『新論理学』金港堂 1904年
- 『宗教と哲学』丙午出版社 1906年
- 『支那哲学史』 東京専門学校 1907年
- 『印度密教と弘法大師の真言』六大新報社 1910年
- 『弥勒浄土論』丙午出版社 1911年
- 再版 平凡社東洋文庫 2006
- 『金剛経と六祖壇経の研究』貝葉書院 1913年
- 『仏典乃研究』丙午出版社 1914年
- 『宗教倫理叢書』第1巻 広文堂書店 1915年
- 『達磨』国民学芸叢書 東亜堂書房 1915年
- 『支那仏教遺物』大鐙閣 1919年
- 『印度の仏教美術』丙午出版社 1920年
- 『仏教芸術とその人物』同文館 1923年
- 『真言密教の興るまで』真言宗京都大学 1925年
- 『東洋文化の研究』岩波書店 1926年
- 『仏教史の研究』弘文堂書房 1927年
- 『仏典批評論』弘文堂書房 1927年
- 『仏教史論』弘文堂書房 1929年
- 『達磨の研究』第一書房 1942年
- 『東洋の古代芸術』創元社 1943年
- 『先徳の芳躅』創元社 1944年
- 『仏教史雑考』創元社 1944年