『加能城址集』「加能越文庫」によると、畠山義綱の三男とされる。天正年間、松波畠山氏5代当主・松波義龍が早世したため、その名跡を継ぎ、松波義親と名乗って松波城主となる。義親は生家とされる能登畠山氏に従い、天正5年(1577年)、七尾城の戦いで七尾城の救援に向かい、奮戦するもまもなく落城したため、密かに脱出して居城・松波城に逃れて再起を図るが、長沢光国率いる上杉軍に包囲されて寡兵にて戦うも多勢に無勢に敗れ、自害した。石川県能登町の万福寺に葬られた。万福寺所蔵の肖像画「伝義親公画像」の画賛によると享年51という[1]。
また未亡人となった義親の室は前田利家の正室芳春院の侍女となり、子女は加賀藩士の長氏の家臣や利家の次男前田利政の家臣になったという[2]。