前田利政
日本の安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。加賀前田宗家初代当主前田利家の次男で、加賀八家前田土佐守家初代当主。能登七尾城主
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経歴
天正6年(1578年)[2]、前田利家の次男として尾張国荒子城(愛知県名古屋市)にて生まれる(『寛政重修諸家譜』)。母はまつ(芳春院)[2]。幼名は又若、のち孫四郎[2][3]。
文禄2年(1593年)9月、従四位下侍従となる[2]。能登国に封じられ、「能登侍従」と称した[2]。同年、豊臣姓を下賜された[4]。のち小丸山城に移り、従兄の前田利好が七尾城に詰める。
さらに、文禄4年(1595年)、羽柴氏を与えられた[5]。慶長2年(1597年)、七尾城に入る[2]。このとき21万5千石[2]。同4年(1599年)に父・利家が死去すると、その所領のうち1万5千石を加増され、計23万石を領した[2]。また、同年に大坂城の詰番衆となる。
利家死後の慶長5年(1600年)、石田三成らが毛利輝元を擁立して徳川家康に対して挙兵すると、兄・利長と共に東軍に属し関ヶ原に向かう途中、北陸の西軍方の大聖寺城の山口宗永を陥れた。しかし、途上で突如、利長たちは金沢へ引き返した。金沢城へ引き返したあと利長が再出陣するが、利政は動かなかった(『象賢紀略』)。また利政は家康に対する反発心から石田三成方に気脈を通じていたとする指摘もある[6]。
見瀬和雄は利政は妻子の救出を図ろうとしたが、事態が急速に展開し、利長が出陣したために、病気と偽り出陣しなかったのではないかとし、石田方であったとする説を否定している。また、『天寛日記』の一節を引用して、利政が石田方についたと家康に訴え出たのは他ならぬ利長であったと指摘している[7]。
関ヶ原の戦い後、利政は能登の所領を没収され、その所領は兄・利長に与えられた[8]。その後は京都に隠棲し、宗悦と号した[9][3]。本阿弥光悦とも親交があったとされる。
慶長19年(1614年)からの大坂の陣では、両陣営から誘いを受けたが中立を決め込んだという。戦後、豊臣方からの誘いに乗らなかった利政の行動を家康は気に入り、利政を10万石の大名として取り立てる打診をしたが、「自分は大野治長の指揮下に入りたくなかっただけで、関東方(徳川氏)への忠節を尽くす行動ではない」と辞退している。ただし、利政の大名取り立てが実現しなかった背景には母の芳春院の働きかけにもかかわらず、約束を反故にすることの多い家康が言を左右にしたという事情[10]や関ヶ原の戦いの時の利政の行動を許せなかった兄・利長が拒否し続けた事情[11]があったとする指摘もある。
寛永10年(1633年)7月14日、京都の町人・角倉与市邸(長女の婚家先)で死去した[12][3]。56歳[12][3]。福昌院怡伯宗悦と諡された[12]。墓所は大徳寺塔頭芳春院[2](京都府京都市北区)。
利政の子・直之は叔父の加賀藩藩主・前田利常に仕え[9]、前田土佐守家を立てた。利政の同母兄・利長の系譜は、利長に男子が無く途絶えているため、利家の正室であるまつの系譜を残したのは利政の子孫である。