林家染語楼 (3代目)

日本の落語家 (1918-1975) From Wikipedia, the free encyclopedia

3代目 林家 染語楼(はやしや そめごろう、1918年7月5日 - 1975年1月18日)は、上方落語落語家上方噺家[1]。本名:鹿田 吉彦[1]出囃子は『野球拳』または『鞍馬』[要出典]4代目林家染語楼は子息、林家市楼(贈5代目林家染語楼)は孫。

本名鹿田 吉彦
別名かずはじめ
ピンピン
シカタタカシ
生年月日1918年7月5日
没年月日 (1975-01-18) 1975年1月18日(56歳没)
概要 本名, 別名 ...
3代目 林家はやしや 染語楼そめごろう
3代目 林家(はやしや) 染語楼(そめごろう)
『落語名作全集 3』(立風書房、1967年12月)より
本名 鹿田 吉彦
別名 かずはじめ
ピンピン
シカタタカシ
生年月日 1918年7月5日
没年月日 (1975-01-18) 1975年1月18日(56歳没)
出身地 日本の旗 日本大阪市阿倍野区
師匠 2代目林家染丸
弟子 4代目林家染語楼
名跡 1. 3代目林家小染
(1937年 - 1955年)
2. 一・一
(1955年 - 1962年)
3. 3代目林家染語楼
(1962年 - 1975年)
出囃子 野球拳
鞍馬
活動期間 1938年 - 1975年
活動内容 上方落語
漫談
司会
家族 4代目林家染語楼(実子)
林家市楼(贈5代目林家染語楼)(孫)
所属 宝塚落語会
上方落語協会(1959年 - 1975年)
主な作品
『食堂野球』
『地下鉄』
『青空散髪』
『お好み焼』
『市民税』
『口合根問』
煮売屋
閉じる

経歴

大阪府大阪市阿倍野区に、時計商の子として生まれる[1]。子供のころは初代桂春団治物真似で周囲の大人を笑わせていたという[要出典]

1937年(昭和12年)4月、2代目林家染丸に入門、3代目林家小染を名乗る[1]。翌年の1938年(昭和13年)に大阪市東区(現・中央区内本町松竹席で初舞台[要出典]3代目林家染丸は兄弟子である。実家の家業を手伝いながら修業を続けた[1]。戦中戦後の上方落語はどん底の状態にあり、ほとんどの落語家たちは落語一本で食べていける状態ではなく、他の仕事を兼ねていた。

1950年(昭和25年)から新作落語を演じるようになる[1]宝塚落語会の発足とともに、桂春坊桂我太呂旭堂小南陵らと入会[要出典]。芸能活動一本にしぼり、1955年7月から一・一かずのはじめ(または かずはじめ)と改名、司会漫談を行う[1]。この頃のあだ名は「ピンピンさん」だった[1]

上方落語協会には設立から2年後の1959年(昭和34年)4月4日付で桂春坊らともに加入[1]同年には三越で新作のみのリサイタル独演会を開催した。1962年(昭和37年)には新作のみの独演会を三越で開催。[要出典]同年4月、3代目林家染語楼を襲名[1]。この襲名時に松竹芸能所属となるが、1967年7月に吉本興業に移る[1]

芸風

演じた新作落語は自作のみだった[1]。野球のユニフォームを着て演じる『食堂野球』[1]戦争で生き別れた恋人の再会物語に大阪市営地下鉄御堂筋線の駅名を織り込んだ『地下鉄』、戦後の街角風景をスケッチした『青空散髪』、大阪名物をテーマにした機知に富んだ『お好み焼』、ナンセンスな『市民税』のほか、漫才松鶴家光晴・浮世亭夢若のネタの落語化『社長の計算』などがある。[要出典]

本名の名字をもじった「シカタタカシ」のペンネームで[要出典]約60本の新作を書き残している[1]古典落語でも『口合根問』『煮売屋』などのネタも得意とした[要出典]

弟子

廃業

  • 林家健坊

脚注

参考文献

外部リンク

Related Articles

Wikiwand AI