閩中十才子

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閩中十才子(びんちゅうじっさいし)は、中国洪武永楽年間(1368年1424年)に現在の福建省を中心として活躍した詩人の総称[1]。なお、閩とは福建省の古名であり[2]、他時代の十才子と区別してこの称で呼ばれる。

概要

閩中十才子は初の詩風における閩中詩派の中核を担い、また晋安詩派とも称される[3]万暦元年(1573年)には、袁表中国語版馬熒中国語版が『閩中十子詩』三十巻を編纂し、万暦四年(1576年)に当時福建布政司督糧道であった徐中行中国語版が俸禄を投じて刊行した[4][5]

一覧

林鴻

林 鴻(りん こう、至元4年(1338年)頃[6] - 没年不詳)は、中国詩人政治家隠士子羽(しう)。福州路福清県(現在の福建省福清市)の人。兄の女婿に王褒がいる。閩中十才子の一人に数えられ、その筆頭に列せられる。

略歴[7][8]

若い頃から仁俠の気風があり、束縛を嫌ったが、読書を好み記憶力に優れていたという。

洪武年間の初め、推薦されて将楽訓導に任ぜられた。

洪武7年(1374年)、『龍池春暁』『孤雁』の二詩によって朱元璋に詩才を認められ、礼部精膳司員外郎を拝命したが、飄逸で仕官には巧みでなかったため、四十歳に満たぬうちに自ら官を辞して郷里に蟄居、専ら詩作に励んだ。門人に周玄黄玄趙迪中国語版林敏陳仲宏鄭関林伯璟張友謙らがおり、遠路はるばる来訪した浦源中国語版の詩才を認めてその名声を高めた逸話もある。

欧応昌中国語版の『瑞岩山志』には林鴻の詩「游瑞岩」を収録し、銭謙益の『列朝詩集中国語版』には林鴻の詩108首が収められている。

鄭定

鄭 定(てい じょう、生没年不詳)は、中国元末明初の詩人・政治家。字は孟宣(もうせん)。長楽(現在の福建省閩侯県)の人。閩中十才子の一人に数えられる。

略歴[9][10]

予てより剣術を好み、陳友定中国語版に仕えて記室を務めた。陳友定が陶安に敗れると、海路で交州広州の辺りへ逃れ、やがて長楽に帰って住んだ。洪武年間の末には、召されて延平府訓導に任ぜられ、のち国子助教に転じた。

王褒

王 褒(おう ほう、生年不詳 - 永楽14年(1416年))は、中国明の詩人・政治家・学者。字は中美(ちゅうび)。侯官(現在の福建省福州市)の人。林鴻の兄の女婿にあたる。閩中十才子の一人に数えられる。

略歴[11]

長沙学官を務め、のち永豊県知県に転じた。

永楽年間、召されて入朝、『永楽大典』の編纂に参与し、官は漢府紀善に至った。

唐泰

唐 泰(とう たい、生没年不詳)は、中国明の詩人・政治家。字は亨仲(きょうちゅう)。侯官(現在の福建省福州市)の人。閩中十才子の一人に数えられる。

略歴[12]

洪武27年(1394年)、進士に及第し、仕えて陝西副使などを歴任。

著に『善鳴集』十巻があった。

高棅

高 棅(こう へい、至正10年(1350年) - 永楽21年(1423年[13])は、中国明の詩人・学者。字は彦恢(げんかい)。は漫士。長楽(現在の福建省閩侯県)の人。のち名を廷礼と改めた。閩中十才子の一人に数えられる。

略歴[14]

酒を好み、詩作と書画に巧みであった。

永楽年間の初め、在野の身のまま召されて翰林院に入り、待詔中国語版・典籍といった官職を歴任した。

著作

その主著として洪武26年(1393年)に成立した『唐詩品彙』九十巻と洪武31年(1398年)に成立した『唐詩拾遺』十巻があり、正集には620人5769首の詩を、拾遺には61人954首の詩を収める[15][16]五言古詩に始まり、七言律詩に至る詩を詩体別に編んでいる[15]

『唐詩品彙』では詩体の中を正始・正宗・大家・名家・羽翼・接武・正変・余響・旁流の九品に分類し、正始に初唐、正宗から羽翼に盛唐、接武から正変に中唐、余響に晩唐の詩人を、旁流に無名・僧侶・女流詩人などを収める[16][注釈 1]。文学において唐の時代を初唐・盛唐・中唐・晩唐の四期に分ける方法(四変説)は、厳羽の『滄浪詩話』や楊士弘中国語版の『唐音』の説を蹈襲したと考えられるが、「詩は盛唐」ということを標榜する古文辞派の文学主張に大きな影響を与え、唐詩の四変説は本書で人口に膾炙した説となったとされる[15][16]。本書は日本でも広く翻刻が為され、世間に流布した[16]

また、高棅はこののち『唐詩品彙』から特に優れた作品1010首を選んで『唐詩正声』二十二巻を編纂し[15]、本書は明末に至るまで、翰林院において模範と仰がれた。他の著作に『嘯台集』『水天清気集』『唐詩品匯』など、詩文集に『高待詔集』五巻がある[13]

王恭

王 恭(おう きょう、生没年不詳)は、中国明の詩人・隠士。字は安中(あんちゅう)[注釈 2]。七岩山に蟄居して皆山樵者と号した。長楽(現在の福建省閩侯県)の人。閩中十才子の一人に数えられる。

略歴[17]

永楽4年(1406年)、儒者として召されて翰林院に入り、待詔を拝命。六十余歳で『永楽大典』の編纂に参与した。

永楽6年(1408年)、『永楽大典』が擱筆されると、翰林院の典籍に任ぜられた。

著に『白雲樵唱集』『鳳台清嘯』『草沢狂歌』などがあった。

陳亮

陳 亮(ちん りょう、生没年不詳)は、中国末明初の詩人・隠士。字は景明(けいめい)。号は扶揺子。長楽(現在の福建省閩侯県)の人。閩中十才子の一人に数えられる。

略歴[18]

亡国の元の儒者として、明が興ってから度重なる招聘があっても応じず、『陳摶伝』を著してその志を示した。のち滄州の中に草庵を結び、三山の長老たちと「九老会」を結成、詩作に励んだ。生涯ついに仕官しなかったという。

著に『儲玉斎集』『滄州集』などがあった。

王偁

王 偁(おう しょう、洪武3年(1370年) - 永楽13年(1415年[19])は、中国明の詩人・政治家。字は孟敭(もうよう)[注釈 3]。号は虚舟。永福(現在の福建省永泰県)の人[20]。父は王翰中国語版タングートの出自で、本姓は唐兀氏。閩中十才子の一人に数えられる。

略歴[21]

父の王翰は元に仕え、洪武10年(1377年)殉国したが、このとき王偁は未だ幼く、亡父の友人呉海に引き取られて撫育された。

洪武年間の中頃、郷里の推薦を得て国学に入り、母を養いたいと陳情した。その母が亡くなると、墓の傍らに廬を結んで六年間喪に服した。

永楽年間の初め、翰林院検討となり、後には『永楽大典』の編纂にも参与した。博学で、『永楽大典』の主著者である解縉中国語版が最も重んじた人物であると言われる。王偁は自ら同輩に並ぶ者はいないと自負していたが、その一方で同僚の王洪中国語版に対してのみは三舎を避いて敬意を払った。

著に『虚舟集』『宿巴陵聞笛』などがあった。

黄玄

黄 玄(黃 玄、こう げん、生没年不詳)は、中国の明の詩人。字は玄之(げんし)。将楽(現在の福建省将楽県)の人。名はとも作る[1][20]。閩中十才子の一人に数えられる。林鴻に親炙し、周玄と共に「二玄」と称された。

略歴[22]

林鴻が官を辞して帰郷したと聞くと、妻子を伴って閩へと移り住み、歳貢によって泉州訓導に挙げられた。

著に『黄博士詩』があった。

周玄

周 玄(しゅう げん、生没年不詳)は、中国明の詩人・政治家。字は又玄[注釈 4](ゆうげん)。閩(現在の福建省福州市)の人。名はとも作る[1][20]。閩中十才子の一人に数えられる。林鴻に親炙し、黄玄と共に「二玄」と称された。

略歴[23]

永楽年間にその文才を買われて礼部員外郎中国語版に任ぜられた。

嘗て、千巻の書物を携えて高棅の家に十年の間居候したことがあり、辞去するにあたってその書を全て捨て「既に我が腹の笥(=知識)となった」と言ったという。

著に『宜秋集』八巻と『周祠部詩』などがあった。なお、朱彝尊は二玄(黄玄・周玄)の両者について「詩はあまりにも軟弱で、句は継ぎ合わせ、字は寄せ集めにすぎず、一家を成すことはできていない」と評している[24]

脚注

参考文献

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