柴田英治

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国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1930-11-11) 1930年11月11日
没年月日 (1999-08-19) 1999年8月19日(68歳没)
柴田 英治
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 岐阜県多治見市
生年月日 (1930-11-11) 1930年11月11日
没年月日 (1999-08-19) 1999年8月19日(68歳没)
身長
体重
175 cm
68 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1950年
初出場 1950年8月13日
最終出場 1960年7月13日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 阪急ブレーブス (1970)

柴田 英治(しばた えいじ、1930年11月11日 - 1999年8月19日[1])は、岐阜県多治見市小路町出身[2]プロ野球選手投手)。現役時代に加藤家の養子になったが、登録名は柴田のままで引退後加藤(かとう)へ改姓した[1][3]。1970年の登録名は加藤英治[4]

養生小学校、高等科を経て、高等1年終了後多治見工業高校に入学[2]。ただし勤労動員のため、満足に授業は受けられなかった。終戦後、同級生らと野球部を結成すると、初参加となった1946年夏の県大会で初優勝を果たす(愛知代表・中京商業に敗れ、甲子園出場はならず)[2]。エースとなった1948年夏の県大会でもチームを優勝に導くが、三岐大会花井悠を擁する岐阜一高に敗れ、またも甲子園出場を逃した[2]

当時、柴田の世代は学制改革の対象だったためもう1年高校に在学するか、卒業するかは自由に選べることができた。そんな中、県大会で柴田の投球を見ていた日大出身の球審が熱心に勧誘したことで、乗り気ではなかったが日本大学に入学する[2]。しかし、当時の日大野球部エースの池田力の牙城を崩せず、合宿生活にも嫌気がさしたことから、入学してからわずか10日で野球部を逃げ出し、多治見工業高校に再編入した[2]

卒業後は大塚産業に入社したが、入社すぐに野球部の解散が決まり、大島信雄選手兼任監督から「ウチのチームからは万谷(励一)北村(収)が阪急に入団する。この際一緒に入団したらどうか」という誘いがあったが、これを固辞し大日本土木に入社した[2]。その後、阪急の丸尾千年次スカウトや森(阪急・森和彦の父。森昌彦は次男)から直接勧誘を受けたことで、1950年阪急ブレーブスに入団[1][2]1952年5月11日の対近鉄パールス戦で71球の最少投球数で完封勝利[1]1953年には開幕投手を務め、オールスターゲームにも出場[1]1952年 - 1956年まで5年連続二桁勝利を挙げるなど活躍した。1960年に現役引退し、1970年に阪急のコーチを務めた[1]

コーチ退任後はカネハマ陶器の社長に就任した[1]。1999年8月19日、心筋梗塞のため死去[3]。68歳没。

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1950 阪急 14930243----.57131175.27279--1320029222.611.07
1951 3322511613----.316734175.2184930--6550176663.381.22
1952 28218431011----.476632155.2149724--0560069553.171.11
1953 43278221713----.567865209.22141240--3981086713.041.21
1954 46298411716----.515946234.21961157--81171185672.571.08
1955 5018302178----.680946235.2219439351110078672.561.09
1956 4426220128----.600768192.217783164770067542.521.08
1957 371420044----.500465112.210852531472047413.271.18
1958 26500041----.80027570.26231121370119151.901.03
1959 7100000--------7816.127430050016168.471.84
1960 13000000--------7620.01734101510662.701.05
通算:11年 3411723913119177----.54260961499.11425732731529650535784802.881.13
  • 各年度の太字はリーグ最高

記録

背番号

  • 12 (1950年 - 1960年)
  • 63 (1970年)

注釈

出典

関連項目

外部リンク

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