柿岡藩
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前史
柿岡
柿岡は、常陸府中(石岡市石岡)から筑波・真壁への交通路にあたり[2]、鎌倉時代に小田氏の一族[注釈 2]が柿岡城を築いて柿岡氏を称した[3]。戦国期には南下した佐竹氏が勢力下に収め、梶原政景や真壁房幹(道無)、次いで長倉氏や国分氏が柿岡城に入ったが[3]、関ヶ原の戦い後に佐竹氏な出羽に移された。
慶長19年(1614年)に立花直次(立花宗茂の弟)が当地で5000石を与えられた[4]。その子の立花種次は元和7年(1621年)に旧領の筑後国に移されて大名(三池藩)となった[4]。
稲葉正勝とその父・正成
稲葉正勝は、稲葉正成と春日局の間に生まれた子で、慶長9年(1604年)、8歳の時に徳川家光に仕え、上野・下野両国内で500石を与えられた[1]。その後、小姓組番頭や書院番頭などを歴任して上総国内で1500石を加増された[1]。
元和8年(1622年)にはさらに3000石を加増され、常陸国新治郡柿岡において合計5000石を領するとともに、老中に就任した[1]。
なおこの頃、父の正成は松平忠昌(結城秀康の次男、越後高田藩主)の御附家老を務めていた。元和9年(1623年)、越前北庄藩主であった松平忠直(結城秀康の長男)が改易され、翌寛永元年(1624年)に弟である忠昌が越前国に移されることとなったが、正成は忠昌に従わずに退去し[5]、息子・正勝の知行地である柿岡に蟄居した[6]。
立藩から廃藩まで
寛永元年(1624年)、稲葉正勝は常陸国真壁郡内で5000石を加増されて1万石の大名となった[1]。翌寛永2年(1625年)に領知朱印状を与えられた[1]。同年、上野国佐野[注釈 3]において1万石を加増された[1][注釈 4]。
寛永4年(1627年)、正成は下野国真岡において2万石を与えられたが(真岡藩)[6]、翌寛永5年(1628年)に没した[7]。正勝は父の遺領2万石を合わせて合計4万石の領主となり[7]、真岡藩主となった[7]。
歴代藩主
脚注
注釈
出典
- 1 2 3 4 5 6 7 『寛政重修諸家譜』巻第六百八「稲葉」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.188。
- ↑ “柿岡村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2026年3月20日閲覧。
- 1 2 “柿岡郷(中世)”. 角川日本地名大辞典. 2026年3月20日閲覧。
- 1 2 『寛政重修諸家譜』巻第百十三「立花」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.689。
- ↑ 『寛政重修諸家譜』巻第六百八「稲葉」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.187。
- 1 2 “真岡藩(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2026年3月20日閲覧。
- 1 2 3 4 5 “柿岡藩(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2026年3月20日閲覧。
- ↑ “佐野藩(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2026年3月20日閲覧。