真岡藩
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前史
戦国時代、真岡城(芳賀城)には宇都宮氏重臣の芳賀氏が拠った[1]。小田原合戦後、宇都宮国綱は豊臣政権下の大名として存続することになった[2]。下野国では浅野長政を総奉行として太閤検地が行われ[3]、文禄2年(1593年)には浅野長政が宇都宮国綱の取次を命じられる[4]。
慶長2年(1597年)、宇都宮国綱は浅野長政の関与によって改易され[5][1](宇都宮崩れ)、真岡も芳賀氏(当時の当主は宇都宮国綱の実弟である芳賀高武)の支配を離れた[1]。宇都宮氏の旧領は豊臣家の直轄地(蔵入地)となり、浅野長政が宇都宮城に入るとともに[6]、真岡城には代官が入った[6]。
慶長3年(1598年)、蒲生秀行が会津から宇都宮に移されると、真岡も蒲生領となり[6]、重臣の町野幸和が配置された[6]。関ヶ原の合戦後、蒲生秀行は会津に復帰する(会津藩参照)。
浅野長重の時代
慶長6年(1601年)、浅野長重(浅野長政の三男)が2万石で入ることで真岡藩が立藩した[7]。長重は町割りや城下町の整備などに尽力した。
慶長16年(1611年)、父が死去した時、父の隠居料であった常陸真壁藩5万石の所領を継ぐこととなった長重は真壁に移った[7]。
堀親良の時代
浅野長重に代わり、堀親良が1万2000石で入った[7]。親良はもと越後蔵王堂藩主で、慶長7年(1602年)に養子に家督を譲って隠居していた[7]。この隠居は堀一族の内紛が背景にあるとされ、親良は慶長11年(1606年)に徳川秀忠に出仕して蔵米1万2000石を支給された[7]。慶長16年(1611年)に真岡周辺に知行地を与えられたものである[7]。
親良は大坂の陣で戦功を挙げたため、元和4年(1618年)に5000石を加増された。親良も城下町建設に尽力した。
寛永4年(1627年)、親良が下野烏山藩に加増移封された[7]。
稲葉正成・正勝の時代
堀親良に代わり、稲葉正成が2万石で入った。正成はもと越後高田藩主・松平忠昌の付家老であったが[7]、寛永元年(1624年)に忠昌が越前北ノ荘(福井藩)に移されることとなった際に従わず、息子・正勝の知行地である常陸国柿岡に蟄居していた[7]。寛永4年(1627年)、真岡に領地が与えられることで大名として復帰した。
翌寛永5年(1628年)に正成は58歳で死去した。正成の子である正勝が自分が領していた柿岡2万石に加え、父の遺領である2万石を合わせて知行4万石となり、真岡に居城を移して真岡藩主となった[7]。
正勝はその後、徳川家光のもとで老中となり、加藤忠広改易のときの事後処理などを担当した功績から、寛永9年(1632年)に相模小田原藩に加増移封された。これにより真岡藩は廃藩となった[7]。
後史
真岡藩の廃藩後も、真岡は小田原藩稲葉家の飛び地領として続いた。真岡城跡には出張陣屋(奉行所)が置かれ、「真岡領」を統治するために真岡奉行が赴任した[8]。真岡は天明3年(1783年)に幕府直轄領となり[6]、小田原藩の陣屋は幕府の真岡代官所として引き続き用いられた[8]。