栃木宿
日光例幣使街道の宿場
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歴史
城下町の栃木
天正19年(1591年)、皆川広照によって栃木城(現在の城内町のあたり)が築かれると、広照による城下町の建設が始まった[1]。栃木町も当初はその城下町として発展したが、慶長14年(1609年)に広照が改易されると、栃木城も廃城となり、城下町としての機能は消失した[2]。
宿場町の栃木

正保4年(1647年)に日光例幣使の派遣が始まると、栃木町は栃木宿として街道の宿場町に定められ、人の往来がさらに盛んになった。また、脇街道によって宇都宮につながったり、会津方面へ通じたりする要所にもなった[3]。
幕末は多難であった。弘化3年(1846年)、嘉永2年(1849年)、文久2年(1862年)の3度にわたり大火に見舞われ、元治元年6月6日(1864年)には水戸天狗党の田中愿蔵による焼き討ちで町の南半分を焼失した[注釈 1][2][4]。これらに加えて物価の上昇もあり、民衆は苦しい生活をしいられた。
慶応3年11月(1867年)、竹内啓(小川節斎)を首領とする一団が出流山満願寺で挙兵した際[注釈 2]、そのうちの数名が軍資金要求のため、脇本陣に滞在した。愿蔵火事の二の舞が危ぶまれたが、陣屋を預かっていた善野司や関東取締出役・渋谷鷲郎らの対応によって騒動は鎮圧された(出流山事件)[6][7]。
舟運
隣の宿
- 日光例幣使街道
- 富田宿 - 栃木宿 - 合戦場宿
