核軍縮

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ピースマークは、イギリスの「核軍縮キャンペーン」の公式シンボルとして始まり、国際的な平和の象徴かつ抗議の象徴となった[1]

核軍縮(かくぐんしゅく)は、 核兵器を削減または廃絶する行為。その最終状態は、核兵器が完全に廃絶された核兵器のない世界である。非核化という言葉は、完全な核軍縮に至る過程を表す言葉としても使われている。[2][3]

核拡散防止条約が合意されたのは、核戦争と核兵器保有が極めて危険なためである。

核軍縮の支持者は、核軍縮は核戦争が起こる可能性を低くし、特に事故や誤報により混乱や軍事行動が起こる可能性を考慮すればなおさらであると主張する。[4] 核軍縮を批判する人々は、核軍縮は抑止力を弱め、戦争をより一般的なものにすると主張する。

反核団体には、核軍縮キャンペーンパグウォッシュ会議創価学会インタナショナル核戦争防止国際医師会議平和首長会議核兵器廃絶国際キャンペーンなどがあり、大規模な反核デモや抗議行動も数多く行われてきた。1982年6月12日、ニューヨークのセントラルパークで100万人が核兵器反対と冷戦時代の軍拡競争の終結を求めてデモを行った。これはアメリカ史上最大の反核デモであり、史上最大の政治的デモでもあった。[5][6]

近年、米国の政治家たちも核軍縮を提唱している。サム・ナンウィリアム・ペリーヘンリー・キッシンジャージョージ・シュルツの4人は、核兵器のない世界を作るための計画への参加を各国政府に呼びかけ、核兵器のない世界を作る具体的なプログラムを提案している。この4人は、この計画を推進するために「核セキュリティ・プロジェクト」を立ち上げた。また、すべての核兵器の廃絶を目指す300人の世界的指導者からなる国際的な超党派グループ、グローバル・ゼロなどの組織も設立された。

歴史

原爆投下後の広島上空のキノコ雲
1946年7月25日、クロスロード作戦の一環として行われた水中核爆発によるキノコ雲
1951年11月、ネバダ核実験場で行われた核実験。この実験は、陸上で実施された米国初の核野外演習であった。

1945年、アメリカ合衆国ニューメキシコ州砂漠で科学者たちが最初の核実験「トリニティ」を行い、核時代が幕を開けた。[7] トリニティ実験以前から、各国の指導者たちは、核兵器が国内政策や外交政策に与える影響について議論していた。また、原子力科学者連盟やパグウォッシュ会議などの専門家団体を通じて、科学界も核兵器政策に関して議論していた。

第二次世界大戦末期の1945年8月6日、日本の広島市上空で「リトルボーイ」が爆発した。TNT火薬12,500トンに相当する爆発量で、爆風と熱波によって50,000棟近い建物が破壊され、死者総数は約90,000~146,000人に上った。[8]3日後の1945年8月9日、日本の長崎市上空で「ファットマン」が爆発し、市の60%が破壊され、35,000~40,000人が死亡した。[9][10]その後、世界の核兵器の備蓄量は増加した。[7]

1946年、トルーマン政権にアチソン・リリエンタール報告が提出された。この報告書は、核燃料サイクルの国際管理、ソ連への原子力技術の公開、国連原子力委員会(UNAEC)を通じた新しい国連(UN)システムによる現存するすべての核兵器の廃棄を提案していた。この報告書は、大幅な修正を加えた上で、バルーク・プランという形で米国の政策となり、1946年6月のUNAECの初会合に提出された。冷戦の緊張が高まるにつれ、スターリンが独自の原子爆弾開発を計画していることが明らかになると、米国は国連安全保障理事会の拒否権を行使しない形での実施体制を主張した。このため、UNAECはすぐに行き詰まった。[11][12]

クロスロード作戦は、1946年夏に太平洋のビキニ環礁でアメリカが行った一連の核実験である。その目的は、海軍艦船に対する核兵器の影響をテストすることであった。科学者や外交官からはクロスロード作戦の中止を求める声が多く寄せられた。マンハッタン計画の科学者たちは、これ以上の核実験は不必要であり、環境的にも危険であると主張し、「核実験が行われた後の付近の水は放射能の『魔女の酒』になるだろう」と警告している。核実験の準備のため、ビキニ環礁の住民は家を追い出され、自力での生活が困難な小さな無人島に移住させられていた。[13]

核実験による放射性降下物は、1954年に太平洋で行われた水爆実験で、日本の漁船「第五福竜丸」の乗組員が放射能汚染を受けたことで初めて世間の注目を集めた[14]。漁師の1人は7か月後に死亡した。この事件は世界中に大きな衝撃を与え、多くの国で反核運動が起こる決定的なきっかけとなった。 反核運動が急速に発展したのは、多くの人々にとって原爆が「社会が最悪の方向に向かうことをを象徴するもの」だったからである。

核軍縮運動

1952年、東ベルリンで開催された世界平和評議会
1962年、キューバ危機における女性たちの平和ストライキ
1980年代、リヨンでの核実験反対デモ
1982年12月12日、3万人の女性たちが空軍グリーナム・コモン基地の周囲6キロで手をつなぎ、アメリカの巡航ミサイルの配備に抗議した。

日本では平和運動が台頭し、1954年には「原水爆禁止日本協議会」が結成された。太平洋の核実験に対する日本の反対運動は広まり、核兵器禁止を求める署名は推定3,500万人分集まった。イギリスでは、1958年の復活祭に、直接行動委員会が主催し、核軍縮キャンペーンが支援した第1回オルダーマストン・マーチが開催された。数千人が、核兵器反対の意思を示すため、ロンドンのトラファルガー広場から、イギリスのバークシャー州にあるオルダーマストンに近い原子兵器研究施設まで、4日間にわたって行進した。[15][16]CNDは1960年代後半までオルダーマストン行進を組織し、4日間の行事に数万人が参加した[17]

冷戦のさなかの1961年11月、約5万人の女性たちが、核兵器反対のデモ行進を全米60都市で行った。これは、20世紀最大の全国的な女性の平和デモであった。[18][19]

1958年、ライナス・ポーリングとその妻は、核兵器実験の中止を求める11,000人以上の科学者の署名入り嘆願書を国連に提出した。ルイーズ・ライスが率いる「乳歯調査」は1961年、地上核実験が、主に汚染された牧草を摂取した牛の牛乳を介して公衆衛生に重大なリスクをもたらすと結論付けた。[20][21][22] その後、世論の圧力と研究結果が地上核実験のモラトリアムにつながり、1963年にはジョン・F・ケネディとニキータ・フルシチョフによって部分的核実験禁止条約が調印された。条約が発効したその日、ノーベル賞委員会はポーリングにノーベル平和賞を授与した。ポーリングは1946年以来、核実験、核兵器の拡散、核兵器の使用そのものに反対するだけでなく、国際紛争を解決する手段としてのあらゆる戦争に反対し、常にキャンペーンを展開してきた。[23] ポーリングは世界生命保護連合の科学諮問委員会会長であり、ドゥブロヴニク・フィラデルフィア声明の署名者の一人でもある。ポーリングは1974年に国際ヒューマニスト連盟を発足させた。

1980年代には、ロナルド・レーガン米大統領の核兵器増強と発言を受けて、核軍縮運動が再び勢いを増した。一方、レーガンは「核兵器のない世界」を個人的な使命としており[24][25][26]、ヨーロッパでは軽蔑された[26]。レーガンはソ連と核軍縮の話し合いを始め、彼は「SALT」(戦略兵器制限交渉)を「START」(戦略兵器削減交渉)に変更した。[25]

1981年6月3日、ウィリアム・トーマスはワシントンD.C.でホワイトハウス平和祈願祭を開始し、後に反核活動家となるコンセプシオン・ピッチョットとエレン・ベンジャミンも参加していた。[27]

1982年6月12日、ニューヨークのセントラルパークで100万人が核兵器に反対し、冷戦下の軍拡競争の終結を求めてデモを行った。これはアメリカ史上最大の反核デモであり、最大の政治的デモでもあった。[5][6] 1983年6月20日、全米50カ所で国際核軍縮デー抗議行動が行われた。[28][29] 大規模なデモにより米海軍の訪問が妨害されたことに伴い、ニュージーランド政府は1984年、核兵器を搭載した艦船の領海侵入を禁止した。[30] 1980年代半ば、オーストラリアでは何十万人もの人々がパームサンデーやその他の平和と核軍縮を求めるデモに参加した。[31] 1986年、数百人もの人々がロサンゼルスからワシントンD.C.まで世界核軍縮と平和のための行進を行った。[32] 1980年代から1990年代にかけて、ネバダ実験場では多くのネバダ砂漠体験や平和キャンプが行われた。

2005年5月1日、広島・長崎への原爆投下から60年を迎えたニューヨークの国連前を、4万人の反核・反戦デモ隊が行進した。[33][34][35] 2008年、2009年、2010年、米国では、いくつかの新しい原子炉の提案に対する抗議と反対運動が起こった。[36][37][38]

カリフォルニア州のローレンス・リバモア国立研究所では、米国の核兵器研究に反対する抗議行動が毎年行われており、2007年の抗議行動では64人が逮捕された。[39] ネバダ実験場では抗議デモが相次いでおり、2007年4月のネバダ砂漠体験デモでは39人が検挙された。[40] キタサップ海軍基地では何年も前から反核抗議デモが行われており、2008年にも数回行われた。[41][42]

2017年、核兵器廃絶国際キャンペーンは「核兵器が使用された場合の壊滅的な被害への注意喚起と核兵器の廃絶を達成するための条約締結への尽力」に対してノーベル平和賞を受賞した。[43]

世界平和評議会

第二次世界大戦後、最も早く誕生した平和団体のひとつが世界平和評議会(WPC)である。[44] これはソビエト平和委員会を通じてソビエト連邦共産党が主導したものであり、その起源は、1947年に発表された共産主義情報局(コミンフォルム)のドクトリンにある。それは、世界がソ連を中心とする平和を愛する進歩的勢力と、アメリカを中心とする戦争を好む資本主義国との間で分裂しているというものだった。1949年、コミンフォルムは「平和こそが共産党の全活動の軸となるべきだ」と指示し、西側の共産党のほとんどがこの方針に従った[45]。戦後平和運動の歴史家であるローレンス・ウィトナーは、ソ連が戦後初期にWPCの推進に多大な努力を傾けたのは、アメリカの武力と攻撃を恐れていたからだと主張する。[46]

1950年、WPCは核兵器の絶対禁止を求めるストックホルム・アピールを開始した。このキャンペーンは支持を集め、ヨーロッパで5億6,000万人の署名を集めたと言われている。そのほとんどは社会主義国からのもので、フランスでは1,000万人(若き日のジャック・シラクの署名も含む)、ソ連では1億5,500万人(全成人人口)の署名が集まった。[47] WPCと距離を置いていた非同盟の平和団体数団体は支持者たちにアピールへの署名を控えるよう忠告した。[46]

WPCは他の平和運動と不穏な関係にあり、「広範な世界的運動になろうとする一方で、ソ連や社会主義国の外交政策にますます利用される」という矛盾に陥っていたと言われている。[48] 1950年代から1980年代後半まで、ソ連は平和団体を利用してソ連の主張を広めようとした。当初、このような団体とWPCの協力関係は限られていたが、ソ連やWPCがロシアの軍拡について何も言わないことを批判しようとした西側の代表は、WPCの会議でそのことを指摘され、1960年代初頭にはWPCから離反していた。

軍縮条約

米国とソ連・ロシアの核兵器備蓄量(1945年-2014年)

1986年、レーガン米大統領とゴルバチョフ新ソ連書記長によるレイキャビク首脳会談の後、米ソ両国はINF条約(1987年)とSTART I条約(1991年)という2つの重要な核軍縮条約を締結した。冷戦終結後、米国とロシア連邦は戦略的攻撃削減条約(2003年)と新START条約(2010年)を締結した。米国はドナルド・トランプ大統領の下で2019年にINF条約から脱退し、ジョー・バイデン大統領の下で2021年に米露戦略安定対話(SSD)を開始した。

冷戦時代、核戦争と核兵器保有による極度の危険性が両陣営に明らかになったとき、一連の軍縮・不拡散条約が、米国、ソビエト連邦、そして世界中のいくつかの国の間で合意された。これらの条約の多くは、何年にもわたる交渉の末、軍備削減と核戦争のリスク削減という重要な一歩を踏み出すことになった。

主な条約

  • 部分的核実験禁止条約(PTBT):地下を除くすべての核兵器実験を禁止。
  • 核拡散防止条約 (NPT):1968年署名、1970年発効。核兵器の拡散を制限するための国際条約(現在189カ国が加盟)。核不拡散、軍縮、核技術を平和的に利用する権利の3つを柱とする。
  • 戦略兵器制限交渉 (SALT I):ソ連と米国は、大陸間弾道ミサイル潜水艦発射弾道ミサイルの配備を凍結することで合意した。
  • 弾道弾迎撃ミサイル制限条約 (ABM):米ソは迎撃ミサイルを2カ所に配備することができ、それぞれ迎撃ミサイル用の地上発射台を最大100基まで設置することができた。1974年の議定書で、米ソはABMシステムを1カ所にのみ配備することに合意した。
  • 戦略兵器制限交渉 (SALT II) :SALT Iに代わるSALT IIは、ソ連と米国のICBM発射台数、SLBM発射台数、重爆撃機の数を同数に制限した。また、多連装再突入ミサイル(MIRVS)にも制限が設けられた。
  • 中距離核戦力全廃条約 (INF) :射程500~1,000kmの短中距離ミサイル、1,000~5,500kmの中距離ミサイルを搭載した米ソの陸上弾道ミサイル、巡航ミサイル、ミサイルランチャーを禁止した。
  • 第一次戦略兵器削減条約 (START I):1991年調印、1994年批准。米国と旧ソ連の新独立国の長距離核戦力を、弾道ミサイルと爆撃機1,600機に搭載される6,000発に制限した。
  • 第二次戦略兵器削減条約 (START II):1993年調印。 START IIは米ロ間の二国間協定であり、2007年12月までに3,000~3,500発を超えない弾頭を配備することを約束しようとするもので、大陸間弾道ミサイル(ICBM)に多重独立再突入弾道ミサイル(MIRV)を配備することの禁止も盛り込まれていた。
  • モスクワ条約 (SORT):2002年署名、2003年発効: 非常に緩やかな条約で、その曖昧さと深みのなさから軍備管理擁護派からしばしば批判を受ける。ロシアと米国は、2012年までに「戦略核弾頭」を1,700~2,200個まで削減することに合意した。2010年に新戦略兵器削減条約に取って代わられた。
  • 包括的核実験禁止条約 (CTBT):1996年署名。CTBTは、あらゆる環境下での核爆発を禁止する国際条約(現在181カ国が署名、148カ国が批准)。条約は発効していないが、ロシアは1990年以来、米国は1992年以来、核実験を行っていない。[49]
  • 新戦略兵器削減条約:2010年署名、2011年発効。SORT条約に代わるもので、2026年までに配備核弾頭を約半分に削減する。
  • 核兵器禁止条約:2017年署名、2021年1月22日発効。締約国による核兵器の保有、製造、開発、実験、またはそうした活動への援助を禁止。

独自に開発した核兵器を完全に廃絶した国は、南アフリカ共和国1カ国だけである。南アフリカ共和国のアパルトヘイト政府は、1980年代に半ダースの粗製核分裂兵器を製造したが、1990年代初頭に解体された。[50]

国際連合

2012年の広島・長崎原爆記念式典に出席したアンジェラ・ケイン国連軍縮代表

国連総会は、1961年の画期的な決議1653号「核兵器および熱核兵器の使用禁止に関する宣言」の中で、核兵器の使用は「戦争の範囲すら超え、人類と文明に無差別の苦痛と破壊をもたらすものであり、そのようなものとして国際法の規則と人道に反する」と述べている。[51]

国連軍縮部(UNODA)は、コフィ・アナン国連事務総長が1997年7月の総会で発表した国連改革計画の一環として、1998年1月に設立された国連事務局の部局である。[52]

その目的は、核軍縮・不拡散と、その他の大量破壊兵器、化学兵器生物兵器に関する軍縮を促進することである。また、通常兵器、特に現代の紛争でしばしば選択される武器である地雷や小型武器の分野での軍縮も推進している。

2012年2月にセルジオ・ドゥアルテが退任した後、アンジェラ・ケインが新たな軍縮担当代表に任命された。

2017年7月7日、国連会議は122カ国の賛同を得て核兵器禁止条約を採択した。2017年9月20日に署名が開始された。

2022年の国連軍縮年鑑によれば、極めて莫大な軍事費と、核兵器不拡散条約を含む重要な軍備管理の枠組みにおける意見の食い違いが見られた一方、核兵器禁止条約締約国会議が初めて開催されたことが記されている。[53]

アメリカの核対策

最近の動向

脚注

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