ノーベル平和賞

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ノーベル平和賞
会場オスロ
 ノルウェー
主催ノルウェー・ノーベル委員会
報酬11 million SEK (2023)[1]
初回1901年12月10日
最新回2025年
最新受賞者マリア・コリーナ・マチャド
最多受賞者赤十字国際委員会 (3)
公式サイトnobelprize.org/peace
ノーベル平和賞受賞者を決定するノルウェー議会
オスロ市庁舎外観
1974年のノーベル平和賞のメダル

ノーベル平和賞ノーベルへいわしょうノルウェー語: Nobels fredspris, 英語: Nobel Peace Prizeは、ノーベル賞の一部門で、アルフレッド・ノーベル遺言によって創設された5部門のうちの一つ[2][3]

ノーベル賞の創設者アルフレッド・ノーベルはスウェーデンノルウェー両国の和解と平和を祈念して「平和賞」の授与はノルウェーで行うことにした。平和賞のみ、スウェーデンではなくノルウェー政府が授与主体である。ノーベル平和賞のメダルは、表面にはアルフレッド・ノーベルの横顔(各賞共通)、裏面には三位一体を表現した図案「Pro pace et fraternitate gentium」の文が刻まれている(受賞者名も刻まれる)[4]

創設者のノーベルは遺言で、平和賞を「国家間の友好関係、軍備の削減・廃止、及び平和会議の開催・推進のために最大・最善の貢献をした人物・団体」に授与すべしとしている[2][3]。他のノーベル賞と異なり、団体も授与対象となっているのが特徴である[3]。政治情勢の影響を受けやすく、第一次世界大戦第二次世界大戦の時期等、受賞者がないことも見られた[3]

当時業績とされた実績が後から欠陥があったり、効果のないものと判明したりするために失望を招くことが多発している。そのため、賞の価値が批判されるなど受賞者選定や賞そのものの妥当性が度々指摘されており[5][6][7]、廃止の声も上がっているという。

また、受賞前の実績だけではなく、受賞後の政治的情勢を誘引する目的で贈られる場合もある。賞は、12月10日午後1時(現地時間)からオスロのオスロ市庁舎で授賞式が行われる。

選定方式

毎年の受賞は最高3人。選考はノルウェーの国会が指名する5人の委員と選考を取り仕切る1人の書記で構成されているノルウェー・ノーベル委員会が行う。各国に推薦依頼状(通常非公表)を送り、推薦された候補者より選ばれる。2013年には259の個人と組織(うち50の組織)の推薦があり、過去最大の数とされている[8]。受賞が決まるのは例年10月頃。候補者の名前は50年間公表されない[8]。個人の場合は生存していること、組織の場合は現存することが条件であり、物故者への追贈はない。死後この賞を受けたのはダグ・ハマーショルドのみ(存命中に授与が決定していたため)[8]

トマーシュ・マサリクウィリアム・ハワード・タフトなどの政治家、ニコライ2世ハイレ・セラシエ1世といった君主、レフ・トルストイピエール・ド・クーベルタンなどが候補となっていたことが公表されている[8]

現在では独裁者とされる人物が推薦された例もある。1939年にはアドルフ・ヒトラーが推薦されているが、これは反ファシズムの立場を取るスウェーデンの国会議員によるもので、皮肉を意図したものであったとされる[8]しかし武田知弘によると、推薦したのはエリク・ゴットフリード・クリスティアン・ブラント英語版でこのジョーク説は第二次世界大戦後にノーベル平和賞委員会とブラントの後付けの言い訳にすぎず、1938年9月に開かれたズデーテン割譲を巡るミュンヘン会談の結果を受けて世界に平和をもたらしたとして、ネヴィル・チェンバレンが称賛されたようにイギリスとドイツに挟まれるスウェーデンは大戦回避をもたらしたヒトラーを推薦したとしている[要検証]。しかし推薦を受けた直後の1939年9月にナチス・ドイツはポーランドに侵攻を開始したため推薦は取り消された[9]。他にベニート・ムッソリーニヨシフ・スターリンフアン・ペロン夫妻もノミネートされているが、受賞には至っていない[8]

ジェーン・アダムズは1916年に初めて推薦を受けて以来、1931年に受賞するまでにのべ91回の推薦を受けた。これは推薦を受けた回数としては最多のものである[8]

賞金

賞金額は1901年当時の賞金額を、その年の貨幣価値に換算されたものが贈られる[10]。2012年以降、平和賞の賞金は一つの賞あたり、800万スウェーデン・クローナとされている[8]。このため共同受賞となった場合には、受賞金額を受賞者達で分け合うことになる。1976年に受賞したベティ・ウィリアムズマイレッド・コリガン=マグワイアの組織は、賞金の分配でもめてバラバラになってしまった[要出典]

論争と批判

医学・物理・化学の科学3賞は、業績に対してある程度客観的な評価と期間を経て選考決定される。しかし、ノーベル平和賞は「現在進行形の事柄に関わる人物」も受賞対象になり、毎年選考に向けて、選考委員に対するロビー活動や政治行動が多く起こるため、選考結果を巡り、世界中で度々論議が起こる。科学3賞や、賞そのものに対して批判のあるノーベル経済学賞と比べ、政治色が強くなりがちである。平和賞受賞者が、その後に世界の失望を招くこともあり、問題視されている[11]

1974年佐藤栄作元首相のノーベル平和賞受賞については、ベトナム戦争支援政策、中国敵視外交などを進めた佐藤の受賞を疑問視する意見もあり、フランスの『ル・モンド』紙は「驚くべき、異議のある決定」と批判している[12]

2020年に『ニューヨーク・タイムズ』は過去30年間のノーベル平和賞受賞者のうち、当時業績とされたものは後から考えると欠陥があったり、効果のないものと判明したりした6人の「疑わしい」受賞者として、エチオピアアビィ・アハメド首相(2019年受賞)、ミャンマーアウン・サン・スー・チー国家顧問(1991年受賞)、イスラエルシモン・ペレス首相、同イツハク・ラビン元首相、パレスチナ解放機構ヤーセル・アラファト議長(1994年受賞)、韓国金大中・元大統領(2000年受賞)、アメリカ合衆国バラク・オバマ大統領(2009年受賞)の名を挙げている。ノルウェー・オスロ国際平和研究所のウーダル所長も「最近では現在進行中のことに対して賞を授け、候補者たちが賞に見合った振る舞いをするよう促している」として「これは非常に危険な行為」と指摘している[6]

ノーベル平和賞受賞者の一部は、戦争を助長したと思われる行動を取ったこともあり、「ノーベル平和賞でなくノーベル戦争賞と呼ばなければいけない」という皮肉もある[13]。特に中東和平問題について広瀬隆は、イスラエルパレスチナ解放機構の秘密会談が行われた背景にアラブ人が不利になる可能性を指摘していた[注 1]

ノルウェー外交による政治アピールの側面もあるとの見方もある。2015年10月9日付けの『ディ・ヴェルト』は「ノーベル平和賞における巨大な誤った決定」との見出しで、同紙が疑問に思う『ノーベル平和賞受賞者』を列挙した。

成果の価値の有無で物議を醸すことになった受賞例
母国から批判を招いた受賞者
  • カール・フォン・オシエツキー(1935年授賞、ドイツ(ナチス政権下))やアンドレイ・サハロフ(1975年授賞、ソビエト連邦)、レフ・ワレサ(1983年授賞、ポーランド人民共和国)、アウンサンスーチー(1991年授賞、ミャンマー)、劉暁波(2010年授賞、中華人民共和国)、メモリアル(2022年受賞、ロシア)、アレシ・ビャリャツキ(2022年受賞、ベラルーシ[32][33]ナルゲス・モハンマーディ(2023年受賞、イラン)、マリア・コリーナ・マチャド(2025年受賞、ベネズエラ[34]のように、独裁ないし権威主義的傾向が強い母国で反権力又は反戦争運動をしている政治犯とされている人物への授賞は、該当国の政府から強い反発を引き起こしている。ナチス・ドイツの「ドイツ芸術科学国家賞」、ソビエト連邦の「レーニン平和賞」、中国の「孔子平和賞」のような、ノーベル賞に対抗した賞がそれぞれの国家によって作られる例もある(ただしレーニン平和賞は1949年に「スターリン平和賞」として創設されたもので、サハロフの受賞がきっかけの創設ではない)。
  • 受賞者が政治犯として当事国に拘束されていたり、出国が認められなかった場合には、本人が授賞式に出席できないケースも度々ある。オシエツキー以後、刑務所に入れられる、あるいは軟禁状態にあるなど、身体を拘束されている最中にノーベル平和賞の授与が決まった人物には、1991年に受賞したアウンサンスーチーと2010年に受賞した劉暁波と2022年に受賞したアレシ・ビャリャツキ、2023年に受賞したナルゲス・モハンマーディがいる。サハロフとワレサとビャリャツキの場合は妻が、アウンサンスーチーの場合は夫と息子が、モハンマーディの場合は二人の子供が代理出席した。なお、オシエツキーの場合は代理出席した弁護士が、賞金のみを受け取り横領した。劉の場合は、妻の出国を中国が認めなかったため、家族の代理出席もできなかった。
  • ベネズエラで反政府地下活動を行っていた2025年受賞のマリア・コリーナ・マチャドは、授賞式出席のため米国の支援も受けて極秘にベネズエラを脱出するも間に合わず(娘が代理出席)、翌日にオスロ入りして会見を行っている[35][36][37]。ベネズエラ政府はこの授賞に反発して在ノルウェー大使館を閉鎖している[38]。翌2026年1月3日、ドナルド・トランプ米大統領がベネズエラに軍事攻撃を行いニコラス・マドゥロ大統領夫妻を拘束した。マチャドはトランプ大統領に自身の平和賞を譲りたいとコメント[39][40]、1月15日に面会した際に自身のメダルを贈呈している[41]。これに対してノーベル賞委員会は「メダルや賞状が他人の手に渡ったとしても、受賞者が変わることはない」との見解を示している[42][43]
受賞しなかったことで疑念を招いたケース

マハトマ・ガンディーはノーベル平和賞を受賞しなかった。死後数十年経ってからノーベル委員会が公表した事実によると、ガンディーは1937年から1948年にかけて前後5回ノーベル平和賞にノミネートされていた(1948年は暗殺の直後に推薦の締め切りがなされた)。これについてノーベル委員会は、ガンディーが最終選考に残った1937年、1947年、1948年の選考に関しウェブサイト上で以下のように述べている[44]

  • 1937年には、彼の支持者の運動が時として暴力を伴ったものに発展したことや、政治的な立場の一貫性に対する疑問、彼の運動がインドに限定されていることへの批判があった。
  • 1947年は、当時インドですでに起きていたヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立への対処に関し、ガンディーが非暴力主義を捨てるかのような発言をしたことで、選考委員の間に受賞に対する疑問が起きた。
  • 1948年は最終候補3人の1人で選考委員からは高い評価を得ていたが、故人に対してノーベル賞を与えられるかどうかで議論が起きた。当時は規定で除外されていなかったが、何らかの組織に所属していなかったガンディーの場合賞金を誰が受け取るかが問題になった。最終的に、受賞決定後に死亡した場合以外は故人に賞を与えるのは不適切だという結論となった。ガンディーがもう1年長生きしておれば、賞を与えられていたと考えるのが合理的であろう。
  • ガンディーがそれまでの他の平和賞受賞者とは異なるタイプの平和運動家であったこと、1947年当時のノーベル委員会には今日のように平和賞を地域紛争の平和的調停に向けたアピールとする考えがなかったことが影響している。委員会がイギリスの反発を恐れたという明確な証拠は見当たらない。

受賞者

脚注

関連項目

外部リンク

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