青梅・本町の人である[5]。父は孫左衛門[1]。家は代々豪農で[4]、青梅縞の仲買を業としていた[1]。根岸家の本家で、根岸典則はその分家である[1]。早くより俳諧を好み、建部凉岱の門に入り、凉宇と号した[1]。凉岱から吸露庵を譲られ、これを襲名し吸露庵凉宇と云った[1]。
京都二条家から「花ノ下」の称号をゆるされた[2]。この頃関東では俳諧師で「花ノ下」の称を得た者はなく、凉宇は「花ノ下」の栄称をかち得た宗匠の嚆矢である[1]。寛政6年11月5日、「曉の浪に別るゝ千鳥かな」の辞世を遺して没する[1]。法名は轉凉弘宇居士[1]。墓は千ヶ瀬、宗建寺[1]。