桂梅枝
日本の落語の名跡
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経歴
初め笑福亭松光の門下で光笑を名乗る[1][5]。次に5代目笑福亭吾竹の門下で吾市[1]。次に西國坊明學の門下で開明[1][6]。桂仁左衛門の門下で左衛門、さらに門十郎と改名した[1][7]。
2代目桂梅枝のもとに移り、初代桂枝光となる[1]。その後、3代目梅枝を襲名した[1]。。
一時、一流の桂派の寄席にも出演したが、主に互楽派や大八会の二流の寄席で活躍し、典型的な端席芸人だった。落語では大成しなかった。主に『稽古屋』『あづま奴』などが十八番だったというが、むしろ余興の四つ竹で名を売った。読み書きや算盤が得意だったため、大八会では幹部に出世した。[要出典]
内妻・岩田フサ[4]は囃子方として下座を勤めていたが[要出典]、1917年5月31日、連れ子の娘とともに強盗に惨殺される[4][8]。その後もしばらくは高座に上がっていたが、大正末期以降の足取りは定かでない[要出典]。
