桜井郁二郎
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上野国西群馬郡(現在の群馬県)に生まれる。幼名は理作[1]。 父は江戸で柔術の天神真楊流の師範代を務めた武道家で、明治維新後は群馬県前橋町で整骨師を始めた。 理作(郁二郎)は幼い時より地元の儒者の下で勉強し、1868年(明治元年)17歳の時、郷里を出て前橋に行き、兄が家業を継ぐべく武術と整骨術の道に進む一方で、医学を志し蘭学者で医師の宮下慎堂に就いた[2]。
宮下慎堂が大学東校(東京大学の前身)の教員となるべく上京するのに合わせ、1870年(明治3年)4月、上京して大学東校に入学し、英語およびイギリス医学を学ぶ[3][4]。
1871年(明治4年)7月に文部省が設置されて、大学東校は東校に改称されドイツからドイツ人軍医のミュルレルとホフマンが招かれると[5][6]、彼らについてドイツ医学を学んだ[7]。またこの時、学資が足りず、官費給付生となっている[8]。
1872年(明治5年)年8月に学制が発布されると、東校は第一大学区医学校に改称され、さらに1874年(明治7年)5月には東京医学校となる[5][6]。この間も引き続き勉学を続け、1876年(明治9年)4月、内科教師ウェルニヒの助手に採用され、10月にはウェルニヒの後任のベルツの助手となる傍ら産科婦人科を専攻して病理学、治療学を研究し、同10月、全課程を修め卒業した[9][10]。近代教育制度の課程を終え、医学士となった初めての日本人のうちの1人となる[10][11][注釈 1]。
卒業後も引き続き内科教室に勤務し[10]、1877年(明治10年)4月12日に東京医学校と東京開成学校が合併して東京大学となると[15]、10月に東京大学助教に任じられた[16]。この時、9月に長崎から上陸したとみられるコレラが、九州に蔓延し、また神戸や横浜の港から全国に広がりつつあった[17]。西南戦争後の熊本や鹿児島のほとんどすべての政府軍の駐屯地でも感染者を出し、陸軍では小さな部隊に分けて各地の兵舎に分散させたが、治療にあたる医師の数が足りない状態にあった[18]。文部省の派遣要請を受けて、10月5日、桜井郁二郎はベルツに挨拶した後、本科生40名を率いて意気揚々と横浜から船で関西に向かい、大阪臨時病院に赴いて神戸に帰着した軍人の治療にあたった[18][16][19]。
1878年(明治11年)より、医院内科に勤務しながら通学生(別課医学生)向けに産科学の講義を受け持ち、1880年(明治13年)からは婦人科の講義に加え、産科試験委員の任にもあたっている[20][21][22][23]。
また、大学に勤める傍ら、産科医および産婆の技術知識の更新を訴え、市中開業医のために巡回講義を行い、1879年(明治12年)には新生児の蘇生法としてシュルツェ氏の考案によるシュルツェ振揺発啼法を試み、また桐原真節、宇野朗などと弘医会を設立して月刊誌「弘医月報」を発行しベルツと共に産褥熱の療法や婦人病についての講演を行うなど、西洋医学に基づく産科学および産婆術の普及を目指した[24][25][26][27][28]。1880年(明治13年)5月には、浅草区新平右衛門町1番地に私設の産婆養成所として紅杏塾を開き、1881年(明治14年)11月、建物が手狭になったため、浅草区福富町3番地に移転している[29][注釈 2]。
大学においては、1881年(明治14年)7月に助教授に任じられ、また群馬県令の依頼で、群馬県出身で県費給付の別課医学生の取りまとめを同郷人として任されている[31]。
1883年(明治16年)3月、紅杏塾を改名して東京産婆学校とし、学則も改定して、1881年(明治14年)に閉鎖した公立の東京府病院の産婆教授所に代わるものとして、卒業と同時に産婆資格が得られるような本格的な師範学校となることを目指した[32][33]。
1883年(明治16年)10月、学校規則に関わる医学部諮詢部会会員に選出され[12]、1884年(明治17年)には、別課医学生徒課程改正案取調委員および第2回内務省東京医術開業試験委員になっている[34]。1885年(明治18年)には、東京大学で本科拡充のために別課の学生募集を停止したため[35]、別課医学教場での講義も終了した[36]。
1886年(明治19年)1月、大学医学部第二医院副長の三浦義純が病気を理由に辞職したので[37]、そのあとを襲い副長を兼務したが、3月に帝国大学令の公布によって東京大学が帝国大学に改組されるのに際し、大学卒業後に海外留学を終えて戻ってきた後輩達に後を託して大学を依願退職し[38][34]、浅草区新平右衛門町の自宅に桜井病院を開院した[39]。
1887年(明治20年)5月には、日本橋区矢ノ倉町(現在の中央区東日本橋一丁目)の広い敷地にレンガ西洋造りの大きな病院と邸宅を新築し、そこに移った[40][41][42]。近代医学に基づく民間の産婦人科専門の病院としては、日本初といわれるが、開院当時は、産婦人科のみでなく内科や外科、小児科の患者の診療も行った[41]。1日100人以上を診ることもあり、往診も多かったという[43][41]。病室不足のため、増築を繰り返し、のちに邸宅も病室に転用し、自宅は芝区西久保葺手町26番地(江戸見坂邸、現在の港区虎ノ門4丁目)に引越すことになる[44][45]。
1887年(明治20年)9月から、産科開業医のために模型を使った産科手術の講義を始め、東京産婆学校も矢ノ倉町の敷地内に移動して桜井病院付属とし、産科医師、助産師および産婆の養成も続けた[46][10]。1888年(明治21年)には、産科婦人科研究会を創設し、桜井病院講義室を事務所として、毎年1度の総会と月に2度の講義と演説のための通常会を開くことに決め[47]、翌年からは通常会の講演をまとめた月報を出版し始めた[48][49]。また、本郷区湯島切通坂町27番地に東京産婆学校の分校を設立し、多くの生徒を集めた[50]。
1888年(明治21年)に東京府の勧告によって、府下の産婆の組織化と知識技術向上のために設立された東京産婆会にも桜井の働きかけがあったと言われ、講師として紅杏塾の最初の門人である岩田文吉と共に招かれている[51][52][53][54]。また、東京産婆学校の同窓会である紅杏会を組織し、産婆の相互扶助会として卒業後の継続的な扶助と教育に資した[55]。
桜井病院の院長を務めながら、手術器具・検査器具の工夫改良、産科手術や婦人病に関する著作や講演を通じて、産科学の発展と、産婆養成、母性衛生の啓蒙に尽くし、1915年(大正4年)2月10日、葺手町の自宅(人見坂邸)において、肺がんで死去した[56][10][57]。2月13日に行われた葬儀には多くの送葬者が参加し、青山斎場での式執行後、青山墓地の両親の墓の側に埋葬された[58]。
人物
号を霞峯と称し、多方面の趣味を持っていた。囲碁将棋から、書画、骨董、謡曲、茶の湯、活花、和歌、俳句、川柳も好み、さらには狩猟や刀剣収集なども趣味とし、新しい流行であった自転車も練習した。絵は南画家の奥原晴湖に学び、茶道を青木蘆斎に学んで、晩年は茶室を建て連日客を招いて茶会を開いていたという。能書家で、本の題字なども手掛け、筆まめで交友も広かったので多くの葉書や手紙を残した。[60][61]
地域活動にも積極的で、住民会として日本橋倶楽部の設立発起人に名を連ね[62]、郷友会として上毛金曜会に参加していた[63]。また、1909年(明治42年)3月には、上毛育英会の設立に協力し、副会長として郷里から上京する学生の支援にあたった[64]。
親族
父の桜井一(はじめ)は、江戸時代末期に於玉ヶ池在住の柔術の天神真楊流開祖の磯又右衛門の高弟で、柳貞斎と号して師範代を務めていた。維新後に整骨師を生業としていたが、郁二郎が矢ノ倉町に住んでいた時に、日暮里に別荘を新築して両親を迎え、1902年(明治35年)春には、父一の米寿、母筆子の82歳の祝いを帝国ホテルで開いた。1905年(明治38年)に両親ともに病没し、青山墓地に埋葬された。[65]
兄の桜井伝蔵は、前橋で家業を継ぎ[10][66]、妹のみち子は、大学東校に籍を置いたこともある事業家の鈴木義宗と結婚し、鈴木と郁二郎は他1名を加えた共同事業として北海道に鈴木農場を創設した[67][68][69]。
妻は、浅草区七軒町の信田たかの長女信田ふじ子(あるいは、ふじ)で、1871年(明治4年)8月に結婚した[70]。
養子の三之助は文久元年(1861年)生まれ、帝国大学医科大学を卒業し、佐賀県で私立唐津病院を開業し、また長崎医学産婦人科部長となり、ドイツに留学後、帰国して唐津で死去。郁二郎は、副島種臣より委嘱を受け、大学の学資を出し、のちに養子にしたという。[71]
長男魯助は、1876年(明治9年)9月26日生まれで、普通科で学び山林学校で農業林業を学び、いくつかの事業を行う傍ら、郁二郎の死後、桜井病院の院主として経営に携わり、院長の義兄弟である功をたすけた[72]。
養子の功は、1877年(明治10年)2月生まれで、1903年(明治36年)に東京帝国大学医科を卒業し、その翌年に郁二郎の養子になって、郁二郎の次女の敏子と結婚した。郁二郎の死後、桜井病院の院長となる。[59][73]
次男の卓二は1878年(明治11年)7月生まれ、14歳でドイツに留学し、コーブルクのギムナジウムより大学に進学、帰国して三之助と共に長崎医学専門学校の医学士となった [74][75][76]。
長女の静子は、1882年(明治15年)3月8日に生まれ、東京女学館を卒業し、1901年(明治34年)にのちに大阪医科大学校長となる佐多愛彦と結婚した。1927年(昭和2年)に、奨学金寄付の功によって紺綬褒章を受章している。[77][78]
3男の清香は、1894年(明治27年)1月に生まれ、1919年(大正8年)大阪医科大学を卒業し、同大学付属病院産科婦人科教室助手となり、1922年(大正11年)ベルリン大学に留学、1924年(大正13年)帰国して桜井病院副院長となる[79]。
3女の常盤は、1888年(明治21年)10月13日生まれ、東京女学院を卒業し、20歳の時東京帝国大学医学部出身で札幌市立病院長となる植村尚清と結婚して札幌に住んだ後、成城学園に入学した長男の教育のために東京に移った[80]。
4女の絮(いと)子は、1892年(明治25年)12月生まれ、のちに桜井病院副院長となった佐野綱次郎と結婚した[71]。 5女の澄子は、1896年(明治29年)3月生まれ、医学博士の関建蔵と結婚[71]。
孫で、魯助の長男桜井孝友は第3代桜井病院院長を務めた[81]。