梁文矩

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梁 文矩(りょう ぶんく、885年 - 944年)は、五代十国時代官僚は徳儀。本貫鄆州[1]

秘書少監の梁景の子として生まれた。後梁の福王朱友璋の賓客となった。はじめ太子校書に試用され、秘書郎に転じた。朱友璋が天平軍節度留後となると、文矩は推挙されて項城県令に任じられた。朱友璋が徐州節度使となると、文矩は徐州節度従事として召し出された。朱友璋が死去すると、文矩は兗州観察判官に転じた[1]

同光元年(923年)、後唐荘宗李嗣源を派遣して鄆州を占拠すると、文矩の父母が鄆州にいたことから、文矩は後唐に帰順した。荘宗と会見して、天平軍節度掌書記に任じられ、李嗣源の幕下に入った。李嗣源が宣武軍節度使・成徳軍節度使を歴任すると、文矩はその属官を歴任した。天成元年(926年)、右諫議大夫に任じられ、知汴州軍州事をつとめた[2]。天成2年(927年)、御史中丞となった[3]。天成3年(928年)、吏部侍郎に転じた[4]礼部尚書に任じられ、西都副留守・判京兆府事に転じた[5]長興2年(931年)、兵部尚書となった[6]。ときに石敬瑭が文矩を宰相にするよう明宗(李嗣源)に推薦し、明宗も聞き入れたが、服喪のため中止された[5]清泰3年(936年)、太常寺卿に任じられた[7]

後晋天福2年(937年)、吏部尚書となった[8]。天福3年(938年)、太子少師に転じた[9]。文矩は道教を好み、道書数千巻を蒐集し、赤松子張良を慕って、羽化登仙のための服薬喫食をおこなっていた[5]。天福4年(939年)、中風のため引退を願い出て、太子太保として致仕[10]洛陽に隠居した[5]。天福8年12月6日(944年1月4日)[11]、病没した。享年は59。太子太傅の位を追贈された[5]

脚注

伝記資料

参考文献

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