天保11年8月17日、浅草に生まれる。愛媛県士族。父は伊野大洲藩士・高橋四郎左衛門、母は湊氏である。字は玄瑞。人となりは温厚であったとされ、医師・梅林宗立の養子となって梅林姓を継ぎ、その業を継承した。なお、渋江抽斎の門人であり、本郷弓町の山田昌栄の塾において、抽斎の次男・優善とともに塾頭を務めた。
明治初年に大学東校に入り医術を学び、文部省十五等出仕となる。明治4年頃、鈴木正言らとともに陸軍軍医補を命じられ、明治6年には軍医副に任じられた。その後、歩兵第13連隊第2大隊医官となり、熊本鎮台病院第2課員を兼務した。
明治10年の西南戦争では、熊本鎮台第二回の軍医副として従軍し、軍医・戸塚正一の下で勤務した。また、歩兵第13連隊第2大隊医官としても従軍し、熊本城籠城戦において約3か月にわたり城を守った。
その功績により軍医に進み、明治11年6月22日、勲五等に叙せられ、双光旭日章および金百円を賜り、陸軍本病院課僚となった。明治13年には正七位に叙され、広島鎮台病院課僚兼歩兵第11連隊第1大隊医官に転じた。
明治15年、江華島事件が発生すると、広島鎮台兵の派遣に随行し、公使館警備に従軍した。この際、外務員外員として京城在勤外務省御用掛を兼ね、帰国後、その労を賞され外務省より金百円を給された。
明治18年4月7日、勲四等に昇叙され、旭日小綬章を受章。明治21年1月14日、病没した。子は夭逝しており、弓削氏の子・津南三を養子とした。墓所は谷中霊園にある。