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渋江抽斎

日本の医師 From Wikipedia, the free encyclopedia

渋江 抽斎(しぶえ ちゅうさい、旧字体: 澁江 抽齋、文化2年11月8日(1805年12月28日) - 安政5年8月29日(1858年10月5日))は、江戸時代末期の医師・考証家・書誌学者。名は全善、幼名は恒吉、字は道純、または子良、通称を道純という。また、抽斎は号であり[注 1]、ほかにもいくつかの号を使用していた。

別名 字:道純、子良
通称:道純
死没 安政5年8月29日( (1858-10-05) 1858年10月5日(52歳没))
江戸幕府
コレラ
国籍 日本の旗 日本
概要 人物情報, 別名 ...
渋江 抽斎
人物情報
別名 字:道純、子良
通称:道純
生誕 文化2年11月8日( (1805-12-28) 1805年12月28日)
江戸幕府 武蔵国江戸神田[1](現・東京都千代田区)
死没 安政5年8月29日( (1858-10-05) 1858年10月5日(52歳没))
江戸幕府
コレラ
国籍 日本の旗 日本
配偶者 #家族・親族
両親 #家族・親族
子供 #家族・親族
学問
時代 江戸時代末期
研究分野 考証学
書誌学
主要な作品 #著作
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来歴

1805年、弘前藩の侍医、渋江允成と3人目の妻縫との子として江戸の神田に生まれる。儒学を考証家・市野迷庵に学び、迷庵の没後は狩谷棭斎に学んだ。医学を伊沢蘭軒から学び、儒者や医師達との交流を持ち、医学・哲学・芸術分野の作品を著した。津軽順承に仕えて江戸に住む。

1858年、コレラに罹患し亡くなった。墓所は神田感応寺。弟子に梅林潔など。

業績

考証家として当代並ぶ者なしと謳われ、漢学・国学の実証的研究に多大な功績を残した。特に『経籍訪古志』は、森立之との共著だが優れたものである。

蔵書家として知られ、その蔵書数は3万5千部といわれていたが、家人の金策や貸し出し本の未返却、管理者の不注意などにより、その多くが散逸した。

人物

生涯で4人の妻を持った。最後の妻である五百(いお)は、抽斎没後の渋江家を守り、明治17年(1884年)に没した。

後に森鷗外が歴史小説『澀江抽斎』を発表し、一般にも広く知られた。なお鷗外に資料提供したのは抽斎の七男の渋江保である。

家族・親族

  • 父・渋江定所(1763-1837) ‐ 医者。名は允成、字は子礼、号に定所・容安室・柳南翁、幼名は専之助、通称は玄庵のち道陸(四世)。鳥羽藩主・稲垣家の元重臣で江戸根津で旅籠屋「茗荷屋」を営む稲垣清蔵の嫡男として生まれ、15歳の1778年に弘前藩医・渋江本皓の養子となる。儒を柴野栗山に、医を依田松純に学び、弘前藩九代・津軽寧親の侍医となる。[3]
  • 母・縫 ‐ 下総国佐倉の城主堀田正順の家臣・岩田忠次の妹。定所の三人目の妻。[4]

森鷗外の『渋江抽斎』には、四回結婚しその間に七男七女を儲けた記述がある[5]。

  • 1人目の妻 尾島 定(おじま さだ)
    • 長男 恒善(つねよし)
  • 2人目の妻 比良野 威能(いの)
    • 長女 純(いと)
  • 3人目の妻 岡西 徳(おかにし とく)
    • 次男 優善(やすよし)
    • 三男 八三郎(はちさぶろう)
    • 二女 好(よし)
  • 4人目の妻 山内 五百(やまのうち いお)
    • 四男 幻香(げんこう)
    • 五男 修・本名 専六(せんろく)
    • 六男 翠暫(すいざん)
    • 七男 渋江保・本名 成善(しげよし)
    • 三女 棠(とう)
    • 四女 杵屋勝久・本名 陸(くが)
    • 五女 癸巳(きし)
    • 六女 水木(みき)
    • 七女 幸(さき)

著作

  • 『経籍訪古志』共著
  • 『留真譜』
  • 『護痘要法』
  • 『四つの海』
  • 『呂后千夫(りょこうせんふ)』小説、未刊行
  • 『読書指南』、市野迷庵著の補遺

史伝

  • 森鷗外『澀江抽斎』1916年1月13日-5月20日『大阪毎日』『東京日日』
現行版

脚注

参考文献

外部リンク

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