梶本靖郎

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梶本 靖郎(かじもと やすお、1938年2月26日 - )は、岐阜県多治見市出身の元プロ野球選手投手)。

国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1938-02-26) 1938年2月26日(88歳)
身長
体重
179 cm
65 kg
概要 基本情報, 国籍 ...
梶本 靖郎
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 岐阜県多治見市
生年月日 (1938-02-26) 1938年2月26日(88歳)
身長
体重
179 cm
65 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1956年
初出場 1957年6月16日
最終出場 1963年8月3日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
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兄はプロ野球選手の梶本隆夫[1][2]。本名は「靖郎」だが、プロ野球選手を退いてから「憲史」という名前を使用している[1][2]

来歴・人物

岐阜県立多治見高等学校から、1956年に兄・隆夫がいる阪急ブレーブスに入団[1][2]。隆夫(岐阜県立多治見工業高等学校)とは異なる高校に進んだのは、東京の大学に進学することを念頭に置いたためだった[2]。高校では内野手からスタートして強肩を買われて投手に転向したが、選手も少ない進学校で、3年生の全国高等学校野球選手権岐阜大会も初戦で完封負けを喫した[2]。阪急からスカウトを受けての入団は、女手一つで育てた母・すぎ子への恩返しが理由だったという[2]

1957年に一軍初登板するが、初勝利は挙げられなかった。阪急の大投手として活躍していた兄に比べ、なかなか一軍では定着できずにいた。1960年7月18日の近鉄戦で先発し7回まで抑えるも8回に投手ライナーを右足に受け降板。後を受けた兄・隆夫が1失点で抑え兄弟によるリレーで初勝利を記録した[1][3]。翌1962年は自己最多となる25試合に登板した。

1963年に引退後、開業を控えた新阪急ホテルに入社[1][2][4]。入社当初は宴会部に所属し、阪急ブレーブスが優勝した時に同ホテルで行われた祝賀パーティーを担当した[1]。後に常務取締役を務める[2][4]

詳細情報

年度別投手成績

さらに見る 年 度, 球団 ...




















































W
H
I
P
1957 阪急 3000000--------163.0621004105515.003.00
1958 3000000--------347.290100501322.351.30
1960 3100010----1.0004211.270100600221.540.69
1961 15200011----.50016942.23431110290017142.951.05
1962 25100011----.50018243.24821001283017132.681.33
1963 15000000--------10123.1263610110018114.241.37
通算:6年 64400032----.600544132.0130103021834162473.201.21
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記録

背番号

  • 36 (1956年 - 1961年)
  • 15 (1962年 - 1963年)

脚注

関連項目

外部リンク

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