森村酉三
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生い立ち
1897年(明治30年)、群馬県佐波郡宮郷村上連取(現・伊勢崎市連取町)に、森村連太の三男として生まれる[1][3]。酉三の名は酉年生まれであることにちなむ[1][3]。森村家は江戸時代には旗本・駒井氏の地方代官を勤めた旧家で[4]、兄・鍋太は佐波郡会議員や宮郷村長を務め、分家の堯太(父の又従兄弟)は群馬県会議員を務めた[5]。酉三の生家は「旧森村家住宅」として伊勢崎市指定重要文化財となっている[4]。
酉三は幼い頃から絵画や粘土細工を得意としていたという[1][3]。宮郷小学校を卒業後[1]、1910年(明治43年)に前橋中学校に入学[1][6]。しかし2年後に校長排斥運動(ストライキ)を起こして退学処分を受ける[1][6]。兄たちの奔走により当時県議でのちの衆議院議員・今井今助の推薦を得るなどして同県沼田中学校に入学することができ、1917年(大正6年)に同校を卒業[1][7]。自身は東京美術学校への進学を望んだが、家族は陸軍士官学校への入学を希望しており、1年後の1918年(大正7年)に東京美術学校工芸部鋳金科に入学した[1][7]。
東京美術学校では香取秀真や津田信夫に師事する[8][9]。1923年(大正11年)に同校を卒業[10][11]。卒業制作は《経筒中子付》[12][11](学校買い上げ)。卒業後も1年間研究科に籍を置いた[10][11]。
戦前期の活動
1924年(大正13年)に同郷の須賀寿々と恋愛結婚するが、これが原因で実家から勘当され、池袋の借家で新婚生活を始めることとなった[10][13]。1924年には鋳金家としてのデビューとなる佐藤藤三郎商店(伊勢崎市)が竣工[14][15]。1925年(大正14年)には華蔵寺公園の板垣源次郎胸像(戦時中に供出されたため台座のみ現存)を制作して彫刻家としてのキャリアもスタートした[16]。
1927年(昭和2年)の第17回鋳金会展にカエルの模様のついた大水盤を出品し銀賞を受賞し、日暮里へと転居[10][17]。この年酉三の後援会が結成され、森村堯太(2代)のほか井上保三郎(井上工業創業者)・江原桂三郎・本間千代吉・桜井伊兵衛といった有力者が名を連ねた[18]。同年第8回帝展に第四部(美術工芸部門)が設けられるにあたり、鋳銅飾花瓶《燈》を出品して入選を果たした[10][19]。帝展入選によって酉三は勘当を解かれ、池袋丸山町に住居と仕事場を新築した[10][17][20]。
1928年(昭和3年)には母校・沼田中学校から校舎の楼上に備える鐘の制作を依頼され、大鐘1・小鐘4からなる《五常の鐘》を作る(戦時中に供出され、現在は再建されたものが沼田高校に所蔵される)[10][21]。
また前橋市では1929年(昭和4年)に上水道が完成するにあたり、酉三に水道共用栓の制作を依頼し、共用栓は2種類のデザインで市内200箇所に設置された[22]。
後援会のメンバーなどによる依頼によって酉三は森村堯太(初代)・江原芳平・本間三郎らの胸像を制作した[23]。1929年(昭和4年)には井上保三郎ら「矢島八郎翁銅像建設会」から高崎市初代市長・矢島八郎の銅像制作の依頼を受け、翌年完成した銅像は観音山で除幕された(戦時中に供出されたため現在の像は分部順治によるもの)[24]。
1930年(昭和5年)に群馬会館が落成するにあたっては、上毛新聞社社長・篠原秀吉から高山彦九郎・小栗忠順のレリーフを、中島飛行機創業者・中島知久平から新田義貞銅像の制作を依頼され、レリーフは2階ホール入口左右の壁に、銅像は1階の正面入口に設置された[25]。稲村ヶ崎で祈りを捧げる姿の新田義貞像は県内の少なくない小学校にも設置されることとなったが、同様のポーズの新田義貞像には酉三制作のものだけではなくそれ以外の人物の手によるものも含まれていた[26]。群馬会館前に1934年(昭和9年)に設置された渡邊忠一郎機関兵[注釈 1]の銅像も酉三が制作したが、並べて設置された富岡鳥松上等兵[注釈 2]の銅像については前橋・高崎の建設地を巡る対立(結局高崎には顕彰碑を設置することで決着した)に起因する紆余曲折を経て北村西望が制作を担当した[27][注釈 3][注釈 4]。
酉三は初入選後も官展への鋳金工芸の出品を続け、《ペリカン銀香炉》(第9回帝展)、《鋳銀雉香炉》(第10回帝展)、《鋳銀白鷺香炉》(第11回帝展)、《錦鶏鳥金銅置物香炉》(第12回帝展)、《鸚鵡》(第13回帝展)、《鋳銅鵜置物》(第14回帝展)、《白銅鷺置物》(第15回帝展)、《鋳銅雉置物》(改組第1回帝展)、《洋銀孔雀香炉》(第1回文展)、《鋳銅蟹置物香炉》(第3回新文展)、《鋳銅兎香炉》(紀元二千六百年奉祝美術展)と入選を重ねた[31]。1942年(昭和17年)の第5回文展に出品した《海の荒鷲鋳銅置物》によって無鑑査となり[注釈 5]、翌年の第6回文展には《北洋の雄鋳銅膃肭置物》を、翌々年の戦時特別美術展には《瑞鳥置物香炉》を出品した[31]。
また海外の展覧会への出品も行い、1929年(昭和4年)パリで開催された日本美術展覧会に《鋳銅鳳凰香炉》を出品し美術館の買い上げとなり、1932年(昭和7年)サンフランシスコで開催された汎太平洋博覧会にも《銀銅人魚花瓶》を出品した[34][35]。
高崎白衣大観音の制作

前述した高崎観音山への矢島八郎像建設を契機に、井上保三郎は井上はパリをモデルに観音山を近代的に再開発する計画を明らかにし、国家への功労者の銅像を建設していくことを提唱した[36]。その構想の中心的存在として前記矢島の像とともに戦没者(無名の国家功労者)の名を刻む大観音像を建立することを企図した[36]。井上は1932年(昭和7年)、その原型制作を依頼するため、池袋の酉三の自宅を訪れた[37]。
井上は「私はセメント会社を経営していてコンクリートが豊富にある。これを何かに活かしたい。ついては私は観音様を信仰しており、あなたの手で立派な観音様をつくってもらいたい」と語りかけ、酉三は井上の熱意に打たれ、無料で制作することを約束したという[37]。
こうして酉三は1934年(昭和9年)5月に100分の1のセメント製の原型(1尺3寸、約39センチメートル)を完成させ、翌1935年に工事が着工、翌々年(1936年)に竣工し同年10月開眼供養が行われた[38]。当時としては世界最大の観音像であった。
群馬美術協会の結成
酉三の前橋中学校時代の同級生には、日本画家の磯部草丘と洋画家の横堀角次郎がおり、3人はともに1897年(明治30年)生まれの酉年であったことから、「三酉会」を結成して資生堂ギャラリーで作品の発表を行うなど親しく交流していた[39][40]。この3人に塚本茂、藤野天光を加えた5人で1940年(昭和15年)に伊豆の小室翠雲を訪問し、1941年(昭和16年)9月16日に雅叙園で小室を会長とする三山美術会の発会式が営まれた[39][41]。11月の第1回展ですでに群馬美術協会と名称を改めている[39][41]。
戦中・戦後
1944年(昭和19年)に郷里宮郷村に疎開[42][43]。鋳金の材料となる銅や鉄は軍需物資として統制の対象となり、創作活動そのものが難しくなった[42][43]。
終戦後の1946年(昭和21年)11月に伊勢崎の日野屋デパートで群馬美術協会の戦後第1回展を開催する[42][44]。1948年(昭和23年)11月、群馬大学医学部附属病院で肝臓がんと診断されるが本人には宣告されなかった[42][45]。翌1949年(昭和24年)、池袋のアトリエ再建を進めていたが、7月9日肝臓がんにより伊勢崎市川久保町の疎開先で死去[42][45]。満52歳没。
葬儀は7月12日に群馬美術協会葬として磯部草丘を葬儀委員長として営まれた[42][45]。戒名は芸徳院秀晃酉三居士、墓は伊勢崎市の宝憧院[42][45]。同年の日展には《鋳銅鯰置物》が遺作として出品された[46][47]。
1978年(昭和53年)に地元の宮郷公民館に磯部草丘・荻原清治とともに胸像(制作・土橋恒夫)が建立された[48]。
未亡人・寿々は酉三の死後にアトリエを再建し、鋳金の道に進むことを志して1951年(昭和26年)の日展に《鋳銅飾花瓶》を出品して初入選を果たした[49]。寿々は1955年(昭和30年)洋画家の田中佐一郎と再婚して田中寿々となった[50]。寿々は長命を保ち2001年(平成13年)4月8日に死去[51][9]。酉三と同じ墓に眠っている[52]。
作品

戦時中の供出や、GHQからの撤去命令執行などにより、現存しないものも多い。
- 《ペリカン銀香炉》1928年、個人蔵[53]
- 《五常の鐘》1928年、非現存、1997年に復元されたものが沼田高校に所蔵[54]
- 《江原芳平翁胸像》1928年、個人蔵[55]
- 《鋳銅鳳凰香炉》1929年、個人蔵[56]
- 《水道共用栓》1929年、前橋市水道局蔵[57]
- レリーフ《高山彦九郎》《小栗上野介忠順》1930年、群馬会館[58]
- 《新田義貞像》 - 県内各地の小学校に建立された3尺サイズの銅像は現存しないが、1尺5寸(約45センチメートル)サイズの像が宮郷小学校などに現存する[59]。
- 《高崎白衣大観音》1936年
- 《関川武治機関兵[注釈 6]胸像》1936年、天増寺関川家墓地[60]
- 《北洋の雄(鋳銅膃肭置物)》1943年、所在不明[61]
- 《鋳銅鯰置物》1948年、伊勢崎市教育委員会蔵[62]
エピソード
- 酒もタバコものまず、作品づくりに精進したという[63][9]。
- 一方いったん趣味にのめり込んでしまうと本格的で、特に登山とスキー、菊づくりには惜しげもなく時間を費やしたという[64][65]。
- 池袋時代江戸川乱歩とは隣同士の関係だった。乱歩の自伝的回想録(『探偵小説四十年』)にも森村夫妻が登場する[66]。
- 第64・65代内閣総理大臣・田中角栄は「完成した白衣大観音の原型を(池袋の)森村のアトリエから(自転車で日本橋の)井上工業東京支店まで運んだのは自分だ」と言って憚らなかったという。真偽のほどは不明だが、大観音建立のプロジェクトが進行中の一時期、田中が井上工業(東京支店)に在籍していたことは事実である。一方森村の妻であった寿々は、森村の死後、洋画家田中佐一郎と再婚したのちも、”角福戦争”の相手、観音山の地元高崎(正確には旧金古町)出身の福田赳夫と終生交流があったという。ちなみに高崎は中曽根康弘の地元でもあり、大観音の周辺で”福中”ならぬ”角福中”が交錯していたということになる。