Wikiwand AI

森田和郎

From Wikipedia, the free encyclopedia

もりた かずろう

森田 和郎
生誕 1955年1月19日
日本の旗 日本 富山県富山市
死没 2012年7月27日(満57歳没)
出身校 埼玉医科大学
職業 プログラマ、実業家
著名な実績 『森田将棋』の開発
親戚 森田高(弟、医師・政治家)
テンプレートを表示

森田 和郎(もりた かずろう、1955年1月19日 - 2012年7月27日[1])は、コンピューターゲームのプログラマ。代表作は『森田将棋』。

1955年、富山県富山市で内科と産婦人科の開業医の家に生まれる。3人兄弟の長男[2]。元参議院議員の森田高は弟[3]。

富山県立富山中部高等学校在学中にプログラム電卓でコンピュータと出会う。高校卒業後、1973年に東京工業大学有機化学科へ入学。留年して2年で東京工業大学を中退。富山県で1年を過ごした後、埼玉医科大学に入学した[2][4]。

1976年に発売された日本電気(NEC)のワンボードマイコンTK-80に大学2年で熱中し、オセロのプログラムを作成[2]。

1981年、武蔵野マイコンクラブに入会。月2回の例会の中で、MS-DOS情報やC言語の講師を行う。武蔵野マイコンクラブとして、「森田オセロ」を発表。自信作の「マリンアドベンチャー」は、投稿のための原稿を紛失し未発表に終わる[5][6]。

PC-8001を購入して、1982年には『月刊アスキー』で定期開催されていた思考ゲーム対決大会「マイクロオセロリーグ」に第3回から出場。優勝して、アスキーからオセロゲームとしてコンパクトカセットでパッケージとして発売されて印税収入を得る。その後、PC-8801に機種を買い換える[2]。当時は、『I/O』出身の芸夢狂人・中村光一と並ぶスタープログラマーとして知られていた[7]。

1982年にエニックスの第1回ゲーム・ホビープログラムコンテストにエニックスから誘われて、1か月で作成したウォー・ゲーム『森田のバトルフィールド』で応募。大賞にあたる賞金100万円の最優秀プログラム賞を受賞し、1983年2月には市販され、印税を約500万円得た[2]。

この成功で1983年4月に埼玉医大に籍を置いたまま、武蔵野マイコンクラブの有志で埼玉県坂戸市に株式会社ランダムハウスを設立し、代表取締役となる。この頃、エニックスの依頼で、当時アーケードゲームで人気博し自身も熱中した『ゼビウス』を目標にした『アルフォス』を半年で開発しており、同年6月にリリースした[2]。

オセロに続いて将棋なども思考ルーチンを開発し、2年間かけて1985年8月に『森田和郎の将棋』を発売[2]。初期のコンピュータ将棋の強豪(コンピュータ将棋選手権第1回 - 第6回の全てでベスト3入り、第2回では優勝)として知られる。ソースコードを示した詳細な解説書『思考ゲームプログラミング ― オセロゲームのアルゴリズムと作成法』(共著、 ISBN 4-87148-186-7 )を上梓するなど後進の教育もおこなった。瀧澤武信らは、アイデアをオープンにするという姿勢が後続のコンピュータ将棋開発者らに受け継がれたからこそ、プログラムが急速に進歩できたと述べている[8][9][10]。

1987年、家庭用ゲーム機のファミリーコンピュータ向けの『ミネルバトンサーガ ラゴンの復活』のプログラムの大部分を担当、自身初のロールプレイングゲームでもあった。ファミコンでは他にも1992年の『ジャストブリード』を開発した[4]。

1999年になってランダムハウスの事業は新たに設立された株式会社悠紀エンタープライズに譲渡された。森田も同社に移籍し、後に代表取締役も務めた[11][12]。

2000年代に入ってからもドリームライブラリや『サムライスピリッツ零』などのプログラムを担当するほか[4]、毎日コミュニケーションズのネット将棋事業にも関わっていた[1]。

2012年7月27日に死去。晩年は体調悪化により歩行困難になっていたという。その死は2013年6月になって、『将棋世界』2013年7月号、『週刊将棋』2013年6月5日号で報じられ、明らかになった[13][14][9]。

人物

ランダムハウス

脚注

Related Articles

Timelines

Top Qs

Fact Checks