楊彦温

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楊 彦温(よう げんおん、生年不詳 - 930年)は、五代十国時代軍人本貫汴州[1]

はじめ後梁の小校をつとめた。後唐荘宗のとき、裨将に累進した。天成年間、河中指揮副使となった。李従珂が河中節度使となると、彦温は李従珂に厚遇され、牙内都指揮使となった[1]

長興元年(930年)4月、李従珂が黄龍荘で軍馬を検査したのに乗じて、彦温は河中府に拠って叛いた。李従珂が人を派遣してかれをなじると、彦温は枢密院の命によるものだと偽り、李従珂に帰朝を勧めた。明宗は兵を興すのを望まず、彦温を絳州刺史に任じようとした。安重誨が強く出兵を求めたため、明宗は京兆尹・西都留守の索自通や侍衛親軍歩軍都指揮使の薬彦稠らに命じて兵を率いて彦温を攻めさせた。明宗は彦温の生け捕りを命じていたが、薬彦稠らが河中府を攻め落とすと、彦温を斬首してその首級を洛陽に送った。彦温の一族もみな滅ぼされた[2]

脚注

伝記資料

参考文献

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