索自通
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若くして騎射を得意とし、山野で狩猟をしていた。晋王李存勗が太原府に駐屯していたとき、自通は野でかれと遭遇し、その姓名を訊かれて、即座に右番庁直軍使に任じられた。のちに狩猟に従って、走る鹿を射当てたことから、指揮使に転じた。周徳威を補佐して燕軍を涿州で攻撃し、燕将の郭在鈞を捕らえた。李存勗に従って魏博を平定し、右突騎指揮使に転じた[1]。
天成元年(926年)、明宗が即位すると、自通は右廂馬軍都指揮使から忻州刺史に任じられた[2]。1年あまりして洛陽に召還され、再び禁兵をつかさどった[1]。天成3年(928年)9月、雲州節度使として出向した[3]。10月、寿州節度使に転じた[4]。天成4年(929年)、忠武軍節度使となった[1]。5月、京兆尹・西都留守に転じた[5]。
長興元年(930年)、楊彦温が河中府に拠って反乱を起こすと、自通は軍を率いてこれを鎮圧した[6]。李従珂に代わって河中節度使に任じられたが、安重誨の意を受けて軍府の兵器の数を帳簿上増やし、李従珂が私造したものと弾劾した。李従珂は王徳妃の保護により罪を免れた。李従珂は自通を深く恨んだ[1]。長興3年(932年)、自通は鄜州節度使となった[7]。清泰元年(934年)、末帝(李従珂)が即位すると、自通は入朝して右龍武軍統軍となった[8]。憂苦のあまり自ら死を求めた。7月、退朝すると洛水で溺死した[1]。