楊思権

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楊 思権(よう しけん、875年 - 943年)は、五代十国時代軍人本貫邠州新平県[1][2]

後梁乾化元年(911年)、軍校となった。貞明2年(916年)、弓箭指揮使・検校尚書左僕射に転じ、控鶴右第一軍使に累進した。同光元年(923年)、後唐荘宗が後梁を滅ぼすと、思権は右廂馬軍都指揮使に任じられた[1][2]

天成元年(926年)、右威衛将軍に転じ、検校司空を加えられた。秦王李従栄太原府に駐屯するにあたって、明宗により馮贇が北都副留守とされ、思権は河東歩軍都指揮使として李従栄を補佐した。李従栄は幼くして傲慢で、公務を自ら裁断しようとしなかった。明宗は李従栄と仲の良い紀綱ひとりを派遣して、ともに遊ばせ、諫め諭そうとした。年少である宋王李従厚のほうが優れていると示唆された李従栄が思権に相談すると、思権は万一に備えて武装兵を準備するよう勧めた。思権はさらに「朝廷は秦王を教導するよう求めたのに、一日じゅう弟の賢明さと兄の暗弱さを言い立てるとは何事か」と使者を叱りつけた。使者は馮贇に報告し、そのまま上奏した。明宗は思権を洛陽に召し出したが、李従栄のためにしたこととして、罪に問わなかった。長興4年(933年)、右羽林軍都指揮使となり、興元府に駐屯した[3][2]

応順元年(934年)、閔帝(李従厚)が即位し、潞王李従珂鳳翔府で起兵すると、思権は張虔釗に従って李従珂の討伐に向かい、岐山県までいたった。思権は最初に寝返って張虔釗を攻めた。ほどなく部下の軍を率いて率先して入城し、李従珂に防禦団練使の地位を求めると、李従珂は静難軍節度使の位を約束した[4][5]

清泰元年(同年)、末帝(李従珂)が即位すると、思権は推誠奉国保乂功臣の号を賜り、検校太保・静難軍節度・邠寧慶等州観察処置等使に任じられた。清泰3年(936年)、入朝して右龍武軍統軍となった[4][5]

後晋天福元年(同年)、高祖石敬瑭が即位すると、思権は左衛上将軍に任じられ、開国公に進封された。天福8年(943年)8月2日、開封府で病没した。享年は69。太傅の位を追贈された[4][5]

脚注

伝記資料

参考文献

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