幼時に父母を失い、母方の叔父の趙俊で養育された。容貌美しく、女紅をよくした。司馬昭の意向により司馬炎にとつぎ、夫婦仲は良く、司馬衷(恵帝)など多くの子供を産んだ。
泰始2年(266年)正月、司馬炎が即位すると、皇后に立てられた。嫉妬深い性格であり、司馬炎が自分の後宮に入れるための女子を選ぶ際には妬み、色白で背が高いが不美人な女性だけを選んだ。あるとき司馬炎は容姿が美しい卞藩の娘を気に入ったが、楊艶は「卞氏は魏の三代の后族であった」を理由にこれに反対し、入内は取り止めとなった。司馬炎は太子の司馬衷が暗愚なため廃そうと考えたが、楊艶は実子を溺愛し、力を尽くして諫めてこれをはばんだ。また、楊艶の働きかけにより賈南風が太子妃(後の皇后)となった。
泰始10年(274年)7月、武帝の膝に崩じた。臨終に際して、貴嬪胡芳(胡奮の娘、司馬炎の寵妃)を厭い、従妹の楊芷を次の皇后に立てるよう懇願した。元と諡された。その後、夫の諡を重ねて武元皇后と称された。
母方の従姉妹の趙粲(趙俊の兄の娘)は司馬炎の側室となっている。