楊虞卿
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元和5年(810年)、進士に及第した。さらに博学宏辞科に応じ、校書郎となった。監察御史に累進した。元和15年(820年)、虞卿は遊蕩にふけって政治を顧みない穆宗を諫めた。ほどなく使者として西北辺境に赴き、兵士をねぎらった。侍御史となり、礼部員外郎・史館修撰に転じた。長慶4年(824年)8月、吏部員外郎となった[3][4]。
大和年間、李宗閔と牛僧孺が宰相となると、虞卿は左司郎中となった。李宗閔におもねり、その肉親のように待遇された。大和5年(831年)6月、諫議大夫に任じられ、弘文館学士・判弘文館事をつとめた。大和6年(832年)、給事中に転じた。大和7年(833年)、李宗閔が宰相を退任し、李徳裕が宰相となると、虞卿は常州刺史として出された[5][6]。
大和8年(834年)、李宗閔が再び宰相となると、ほどなく虞卿は長安に召還されて、工部侍郎となった。大和9年(835年)4月、京兆尹に任じられた。この年の6月、長安で鄭注が小児の心臓や肝臓を用いて金丹薬を調合しているとの風説が流れた。御史大夫の李固言は虞卿の一党を憎んでいたため、この風説が虞卿の手下から出たものだと弾劾した。文宗は怒って、虞卿を逮捕して獄に下した。翌日に虔州司馬に左遷され、さらに虔州司戸参軍に降格された。のちに配所で死去した[5][7]。