樂吉左衛門
楽焼の茶碗を作る茶碗師の樂家が代々襲名している名称
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歴史

16世紀後半、日本の京都であめや(阿米也、飴屋または飴也)と比丘尼(びくに)の子である長次郎(初代、樂焼の創始者)が創始。千利休が大成させた「侘茶」の精神を汲み取り、一碗の赤樂茶碗を制作する、それが樂焼の始まりとされている。長次郎の妻の祖父である田中宗慶(たなかそうけい)とその子である常慶 (二代樂吉左衛門)、宗味とともに樂焼工房を構え、その後に「田中宗慶が太閤様より「樂」の印を賜った」『宗入文書』より。[1]この太閤様とは豊臣秀吉であり、当時樂焼が聚樂焼と記されていることからも、天正十五年(1587)に完成した「聚楽第」に由来すると考えられている。
その後に田中宗慶の子である常慶(じょうけい)が樂家の二代目となる。常慶が二代目となった所以には諸説あり、長次郎から常慶に至る空白期間は未だ判然としておらず、後に十五代樂吉左衛門覚入がこのように記している。
宗慶は「とし六十田中天下一宗慶(花押)文禄四年九月吉日」の刻銘と「宗慶印」と呼ばれる楽印の捺された三彩獅子香炉を残し、またいわゆる「宗慶印」をもった茶碗が伝世する。宗味についても「宗味焼」の書付けをもつ茶碗が、いくつか残されている。特に長次郎没後、豊臣から徳川への時代変化の中で、いわば過渡期の楽家の陶房は、この宗慶を中心とする人々によって支えられて来たといえるようである。そして、やがて吉左衛門常慶へと受け継がれ、楽家二代としてその基礎がかためられてゆくのである。 『現代の千家十職』(十五代樂吉左衛門 他著, 淡交社, 1986.11)より原文引用[2]

千利休と長次郎、田中宗慶の間にあった関係は、千利休没後も続いており、千利休が切腹ののち、千利休の子である少庵が会津に預かりの身となるが、許されたおりに会津まで迎えに行ったとされるのは常慶であり、千家の復興と共に樂家は基盤を確かなものとしていった。[1]また、本阿弥光悦に樂焼を教えたのは常慶であったと言われており、その本阿弥光悦の取りなしもあり常慶は徳川家に出入りを許され、徳川秀忠より「樂」の字を拝領し印とした。常慶作の白楽獅子香炉が増上寺の徳川秀忠の墓と徳川家とゆかりの深い寛永寺境内からそれぞれ出土していることからも関係性が認められている。[3]この頃の田中宗慶、宗味、二代常慶の現存する作品は数少ない。
その後、三代を継いだのは常慶の長男である道入 (三代樂吉左衛門)である。三十七歳の時に先代であり父である常慶を亡くした。通称ノンコウ、またはノンカウと呼ばれ、道入は長次郎や常慶とは全く異なった実験的な新しい作行きを示している。長次郎の造形を、沈潜した、重厚感、存在感のある毅然としたものなら、道入の茶碗はのびやかで明るく、軽やかなものである。釉技においても、朱釉、飴釉、黄ハゲ、幕釉、蛇蜴釉等の装飾性の強い技巧が見られ、道入の自由な個性と作為、動的な表現意識があふれており新たな樂焼を、ひいては日本の陶磁における新たな表現を切り拓いた。本阿弥光悦から「今の吉兵衛は至て樂の妙手なり 我等は吉兵衛に薬等の伝も譲りを得て 慰にやく事なり 後代吉兵衛が作は重宝すべし」と評された。光悦との親交は深く、光悦茶碗の中でも特に黒楽茶碗は道入・常慶によって焼かれたものである。没後、時間を経て道入は、樂家歴代一の名工と言われ大きな評価を得ることとなるが、しかしこの時代、封建君主の御用ではない樂家は道入をもってしても財政は厳しく、「しかれども当代は先代より不如意の様子」と貧窮していた様子が記されている。
道入42歳の時に左兵衛、のちの一入 (四代樂吉左衛門)が生まれる、その後、道入は58歳で他界。この時、一入は17歳であるため、父・道入とともに作陶した時間は少なかった。一入の妻は蒔絵師猪熊明(宗関)の娘で、覚文年間には一時妻の実家近くに住まいした。しばらく妻とは子供に恵まれず、23歳までに妾との間に男子(一元)を授かり、さらに雁金屋三右衛門から男子(宗入)をもらい養子とした。その後、娘・於津(妙通)を授かり、のちに宗入の妻となっている。一元には楽家に引き取られて暮らしていた時期があり、一入が伊勢の御師の仕事のために宗入、一元を伴い下向した記録も残されている。元禄元年(1688)宗入は吉左衛門と名乗り、のちに重要文書となる『宗入文書』を記す。元禄4年(1691)に四代樂吉左衛門が剃髪隠居し一入へと名を改め、宗入へと家督を譲った。その頃、一元は樂家を出て母方の実家・山城国玉水村において樂焼窯を開窯した。これがのちの玉水焼である。元禄9年(1696)、一入が没する(享年57歳)。この頃、樂家は京都の油小路へ戻ったとされている。宗入50歳の時、半白の祝いに黒樂茶碗200碗の連作を行い、その年の干支に因んで「発日茶碗」と呼ばれ、代表作の1つとなっている。
左入 (六代樂吉左衛門)は大和屋嘉兵衛の次男として生まれ、宗人の婿養子となる。実家は京都油小路二条東入ルにあった。樂家との関わり、左人が楽家に入る時期などは未だ詳らかでない。宝永5年(1708)、宗入の隠居にともない、宗人の娘・妙修を妻として24歳で六代吉左衛門を襲名した。享保13年(1728)、長男・長入に家督を譲り、44歳で隠居。表千家六代覚々斎宗左より「左」の字を授かり、左入と号す。この時、長入15歳であった。左入隠居後、享保13年(1728)覚々斎による手提ね50碗「流芳五十」を焼く。その後、左入の集大成ともいえる「左入二百」(赤黒茶碗合わせて200碗)を享保18年(1733)に連作した。
長入 (七代樂吉左衛門)は15歳で左入から家督を譲り受け、49歳で隠居し、57歳で亡くなる。長入の時代は、利休から始まった千家も三千家にわかれて繁栄し、家元制度も整い、茶の湯は町人層にもこれまでにはない広がりを見せる。そうした江戸中期の安定と爛熟した文化土壌の中で、長入は40年あまりの長い作陶生活を送り、如心斎、一燈宗室、直斎宗守はじめ、川上不白など家元・茶人との交流を深めている。
得入 (八代樂吉左衛門)は長入の長男として生まれる。18歳で家督を継ぐが病弱であったため、26歳の時、長入が亡くなると同時にまだ15歳であった実弟である惣次郎(のちの了入)に家督を譲り、佐兵衛と改名し隠居した。妻をもらうこともなく、その後、30歳という若さでこの世を去った。「得入」の名は、25回忌の法要の際に与えられ、「賢義院得入日普居士」と法名を改めた。若くして病気がちな得入は、家督を継いでいた期間が約9年間という短さで、亡くなる時まで作陶したと考えても作陶期間は短く、そのため得入の作品は歴代の中で最も少ない。

了入 (九代樂吉左衛門)は長入の次男。「雪馬」「発生老人」などの号を名乗っている。了入は、兄である8代得人が病弱であったため15歳で家督を譲り受け、その後79歳で没するまで長い作陶人生を歩む。15歳で父を、19歳で兄を亡くし、33歳の時には京都・上がほとんど焼失する「天明の大火」にあい、長次郎以来の陶土を焼かれてしまう。その翌年には妻までも亡くし、49歳の時には18歳になった長男を亡くしている。しかし度重なる不幸にも負けず、兄が亡くなった翌年には赤黒200碗もの茶碗の連作を行い、大火の翌年の寛政年には長次郎200回忌のための茶碗200椀を制作した。表千家8代啐豚斎はじめ千家の力添えも大きな助けとなり、了入は楽家の磐石な基礎を築き、のちに「中興の祖」と人々から称賛されている。作陶の他にも多才を発揮し、俳諧や書画、易学、神道などを学び、晩年は近江(滋賀県)石山に隠居所をつくり、魚釣りなどを楽しみ、作陶と風雅に興じた。石山での作陶には「石山閑居造」「於湖南造」などと彫られた作品も多い。[1]
その後、旦入 (十代樂吉左衛門)、慶入 (十一代樂吉左衛門)、弘入 (十二代樂吉左衛門)、惺入 (十三代樂吉左衛門)、覚入 (十四代樂吉左衛門)、直入 (十五代樂吉左衛門)と続き、当代は十六代樂吉左衛門である。
作風
主に茶道具(茶碗、茶器、水指、花入、香合、蓋置、建水など)や炭道具(灰器、火入、香炉など)、懐石道具(四代一入以降)を主に作陶する。轆轤を使用せず、手とへらだけで成形する「手捏ね」(てづくね)と呼ばれる方法で成形した後、赤楽の場合はおよそ900℃〜1,000℃前後、黒楽の場合はおよそ1200℃の低火度で内釜という独特の窯を使い焼成を行う、このような一品制作の形は樂家が生み出した独自の製法である[1]。
一子相伝と言えど、代々細かな技法や釉の調合などは各代が各々の感性を元に追求している為、各代でそれぞれ個性豊かであり、趣が異なる。黒樂は最も格式高く、その他に赤樂、青樂、香炉釉や青磁釉を使った白樂を中心として作陶しているが、胎土の種類、形の種類、細かな技法、釉の調合、焼成の加減で茶碗一つとっても同じ物が一つと存在しない無数のバリエーションを生み出している。また、一焼成ではゼーゲルコーンや温度計などの計器は用いず、火の色や音など五感で判断し、酸化と還元の中間など微妙な加減でコントロールしている為、他の焼成では決して出せない絶妙な美しい色調を獲得している。
歴代
- 二代 常慶(永禄4年(1561年)-寛永12年(1635年))
- (じょうけい)田中宗慶(長次郎の補佐役と目される)の次男。大振りでゆがみのある茶碗、「香炉釉」と呼ばれる白釉の使用を始める。本阿弥光悦と交流があった。
- 三代 道入(慶長4年(1599年)-明暦2年(1656年))
- (どうにゅう)二代長男。名「吉兵衛」後「吉左衛門」。俗称「ノンコウ(ノンカウとも)」。初代や二代とは全く異なる、朱色、黄色など多数の釉薬を使用する明るい作風が特徴。
- 四代 一入(寛永17年(1640年)-元禄9年(1696年))
- (いちにゅう)三代の息子。名「佐兵衛」後「吉左衛門」。初代を模範としつつ、父の技法を取り入れ、地味な色調の中に光沢を持つ作風を特徴とする。
- 五代 宗入(寛文4年(1664年)-享保元年(1716年))
- 六代 左入(貞享2年(1685年)-元文4年(1739年))
- (さにゅう)大和屋嘉兵衛次男、五代の婿養子。「光悦写し」の茶碗で知られる。代表作「左入二百」(享保18(1733年)作成)。
- 七代 長入(正徳4年(1714年)-明和7年(1770年))
- (ちょうにゅう)六代長男。茶道人口が町人にまで増大する中、茶碗以外に香合や花入れなど多数の作品を制作。代表作「日蓮像」(樂家所蔵)。
- 八代 得入(延享2年(1745年)-安永3年(1774年))
- (とくにゅう)七代長男。父の隠居に伴い1852年に襲名するが、病弱のため、父の死後に弟に家督を譲り隠居、「佐兵衛」と改名。その後も制作を続けるが30歳で早世。25回忌の時に「得入」と賜号され、正式に歴代の中にはいる。
- 九代 了入(宝暦6年(1756年)-天保5年(1834年))
- 十代 旦入(寛政7年(1795年)-嘉永7年(1854年))
- 十一代 慶入(文化14年(1817年) - 明治35年(1902年))
- 十二代 弘入(安政4年(1857年) - 昭和7年(1932年))
- 十三代 惺入(明治20年(1887年) - 昭和19年(1944年))
- 十四代 覚入(大正7年(1918年) - 昭和55年(1980年))
- 十五代 直入(昭和24年(1949年)-)
- 十六代 樂吉左衛門(昭和56年(1981年)-)※当代