楽彦瑋
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青城県令の楽宗の子として生まれた[3]。顕慶年間、給事中となった。ときに亡き侍中劉洎の子が宮中を訪れて、劉洎が貞観末年に褚遂良の誣告のために無実の罪で死んだと訴え、冤罪を晴らしたいと上奏した。高宗が近臣に諮問すると、みな中書侍郎の李義府の意を受けて劉洎の無実を言上した。彦瑋がひとりこれに反対したため、劉洎の名誉回復は取りやめになった。ほどなく父母が死去したため、彦瑋は辞職して喪に服した。喪が明けると、彦瑋は唐州刺史として起用された。彦瑋が入朝して挨拶すると、高宗は彦瑋が李義府に反対して直言したことを思い出し、東台舎人として任用した[2]。麟徳元年(664年)、検校西台侍郎・同東西台三品(宰相)となった[1]。麟徳2年(665年)、知政事(宰相)を退任した[4][5]。
乾封元年(666年)、劉仁軌に代わって大司憲となった。官名がもとにもどされると、御史大夫に改められた。上元3年(676年)、死去した。秦州都督の位を追贈された。永昌元年(689年)、さらに揚州大都督の位を贈られた[6]。