楽彦禎

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楽 彦禎(がく げんてい、生年不詳 - 888年)は、唐代軍人魏博節度使。もとの名は行達。本貫魏州[1][2]

澶州博州貝州刺史を歴任した楽少寂の子として生まれた。若くして魏州の軍校となった。魏博節度使の韓簡に仕えて、馬歩軍都虞候となり、博州刺史に転じた。中和2年(882年)、韓簡が河陽を攻撃し、河陽節度使の諸葛爽を敗走させると、行達は功を挙げ、澶州刺史となった。中和3年(883年)、韓簡が再び河陽を討って敗れると、行達は一軍を率いて先に魏州に入り、魏州の人に留後に立てられた。ほどなく朝廷により検校工部尚書とされ、魏博節度留後をつとめた。まもなく戸部尚書を加えられ、魏博節度観察処置等使をつとめた。中和4年(884年)、検校尚書左僕射・同中書門下平章事を加えられ、彦禎の名を賜った。僖宗成都から長安に帰ると、彦禎は開府儀同三司の位を加えられ、司徒に任じられた[1][2]

彦禎は儒学を好み、公乗億李山甫らを幕下に招いた。嗣襄王李熅の乱にあたって、彦禎は李山甫を鎮州王鎔のもとに送って幽州邢州滄州の諸藩鎮との同盟によって反乱軍に対処しようとした[3]。また彦禎は驕慢で不法のことが多かった。民衆を動員して、羅城や河門の旧堤を改修したが、工事を急がせて1月あまりで終わらせたので、人々に恨まれた[4][5]光啓元年(885年)、彦禎は洺州刺史の馬爽を殺害した[6]

文徳元年(888年)2月、魏博軍が反乱を起こし、彦禎は節度使の地位を追われた。子の相州刺史の楽従訓が魏州を攻めたが、魏博軍は小校の羅弘信を留後に立てた[7][8]。4月、彦禎は龍興寺で魏博軍に殺害された[9]

脚注

伝記資料

参考文献

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