韓簡 (唐)

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韓 簡(かん かん、生年不詳 - 883年)は、唐代軍人魏博節度使本貫魏州[1][2]

韓允忠の子として生まれた。咸通11年(870年)、父が魏博節度観察等使を称すると、韓簡は節度副使とされた。乾符元年(874年)、検校工部尚書となった。11月、父が死去すると、韓簡は魏博節度観察留後・魏州大都督府長史となった。12月、検校尚書右僕射を加えられた。乾符3年(876年)、検校太尉同中書門下平章事となった。中和元年(881年)、侍中を加えられ、昌黎郡王に封じられた[3][2]

中和2年(882年[4]、韓簡は挙兵して河陽を攻撃し、河陽節度使の諸葛爽を敗走させた。さらに韓簡は邢州洺州を略奪し、鄆州を攻撃しようとした。天平軍節度使の曹全晸は出戦して韓簡の軍に敗れ、戦死した。鄆州の将の朱瑄が敗残兵を糾合して鄆州を守り、韓簡は鄆州に進攻したが、半年陥落しなかった。そのあいだに河陽は諸葛爽に奪回された。韓簡は先に朱瑄を討とうとし、鄆州に全力を挙げると、朱瑄は講和を求めてきた[3][2]。中和3年(883年)2月、韓簡は再び河陽を攻撃したが、諸葛爽の派遣した大将の李罕之武陟で迎撃され、敗れた。韓簡は単騎で魏州に逃げ帰り、部下に殺害された。楽彦禎が留後となった[5]

脚注

伝記資料

参考文献

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