榎社

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所在地 福岡県太宰府市朱雀六丁目
位置 北緯33度30分28.566秒 東経130度30分52.304秒 / 北緯33.50793500度 東経130.51452889度 / 33.50793500; 130.51452889 (榎社)座標: 北緯33度30分28.566秒 東経130度30分52.304秒 / 北緯33.50793500度 東経130.51452889度 / 33.50793500; 130.51452889 (榎社)
主祭神 浄妙尼
創建 1023年治安3年)
榎社
所在地 福岡県太宰府市朱雀六丁目
位置 北緯33度30分28.566秒 東経130度30分52.304秒 / 北緯33.50793500度 東経130.51452889度 / 33.50793500; 130.51452889 (榎社)座標: 北緯33度30分28.566秒 東経130度30分52.304秒 / 北緯33.50793500度 東経130.51452889度 / 33.50793500; 130.51452889 (榎社)
主祭神 浄妙尼
創建 1023年治安3年)
別名 浄妙院浄妙寺、浄妙尼寺、榎寺(廃仏毀釈までの名称)
浄妙尼社
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榎社(えのきしゃ、別名:榎寺)は、太宰府天満宮(もとは天原山安楽寺)境内飛地にある神社菅原道真が、901年昌泰4年・延喜元年)に大宰府に左遷されてから903年(延喜3年)に逝去するまで謫居した跡で[1]、当時、府の南館であったといわれる。

社殿

1023年治安3年)、大宰大弐藤原惟憲が道真の霊を弔うために浄妙院を建立したのが始まりで、境内にの大樹があったのでいつしか榎寺(えのきでら)と呼ばれるようになった。

榎社は、所在地名は太宰府市朱雀であり、その地名のとおり大宰府政庁跡のちょうど南に位置している。鳥居の近くには西鉄天神大牟田線が走り、南に西鉄二日市駅、北に二日市カトリック幼稚園筑陽学園中学・高等学校がある。

2016年(平成28年)には、境内の発掘調査において9世紀後半 - 10世紀初頭頃の掘立柱建物の遺構が検出されており、菅原道真の晩年期と同時期の建物跡として対応関係が注目されている[2]

祭事

神幸祭(通称:どんかん祭り)
太宰府天満宮の神幸祭で道真の神輿が雅やかな行列とともにこの社に下り、御旅所で一夜を過ごす9月22日の夜、ふだん人気のない社は、年に一度の賑わいをみせる。御旅所の後ろに小さい祠があって、神輿はまずその前に行き宮司が奉幣する。この祠に祀られているのが、道真を日夜世話したという浄妙尼(もろ尼御前)である。

菅原道真の暮らし

鳥居

道真は、この地での哀れな暮らしぶりを次のような詩を詠み嘆いている。

都府樓纔看瓦色 觀音寺只聽鐘聲(都府楼は纔かに瓦色を看 観音寺は只鐘声を聞く)

(都府楼は大宰府政庁、観音寺は観世音寺、鐘は観世音寺にある梵鐘のこと。)

これは白居易江州に左遷させられたときに詠んだ七言律詩の一節

遺愛寺鐘欹枕聽 香爐峯雪撥簾看(遺愛寺の鐘は枕をそばたてて聞き 香爐峯の雪は簾をかかげて看る)

を準えたもので、枕草子でも同様な逸話が出てくる。

隈麿と紅姫
道真は大宰府に下る時に、幼子2人、隈麿と紅姫を連れて行くことを許されて伴ってきた、とされている。榎寺での生活は不自由な苦しいものであったが、愛らしい幼児2人が、唯一の心の支えだった。あまりにも酷い暮らしの中で道真自身、脚気や皮膚病に悩み、胃腸もこわすという状態だったが、幼い隈麿は、大宰府に着いた翌年病に罹り急逝した。

周辺情報

交通

脚注

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