榮太樓總本鋪
東京都中央区の和菓子企業
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株式会社榮太樓總本鋪(えいたろうそうほんぽ、英: Eitaro Sohonpo Co.)は、東京都中央区日本橋に本社・本店を構える、老舗の和菓子店である。創業は1818年(文政元年)。
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榮太樓總本鋪外観 (2026年3月) | |
| 種類 | 株式会社 |
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| 市場情報 | 非上場 |
| 本社所在地 |
〒103-0027 東京都中央区日本橋一丁目2番5号 榮太樓ビル7階 |
| 設立 |
2011年(平成23年)11月 (創業:1818年(文政元年)) |
| 業種 | 食料品 |
| 法人番号 | 4010001143272 |
| 事業内容 | 和菓子の製造販売 |
| 代表者 | 代表取締役社長 細田眞 |
| 資本金 | 2500万円 |
| 従業員数 | 300名 |
| 主要子会社 |
榮太樓雪月花株式会社 株式会社細田協佑社 |
| 関係する人物 |
細田安兵衛 (3代目)(創業者) 細田安兵衛 (6代目)(相談役、6代目社長、元会長) |
| 外部リンク | https://www.eitaro.com/ |
概要
本店は、江戸時代に細田栄太郎が店舗を構えた日本橋の「西河岸(にしがし)」の地に今もある。本社も同ビル内。
調布市仙川町2丁目に工場があったが2013年に廃止。現在、工場は八王子市七国1丁目にあり、そこで商品が製造されている。大阪府と福岡県に営業所を持つ。
商品の主な販売先は、百貨店、空港・駅構内、スーパーマーケット、コンビニエンスストア、ショッピングモールなど多岐に亘る。他には、榮太樓飴を主力商品として昔からの神社仏閣ルートも持っている。
近年はさらにWEB通販にも力を入れている。
日本橋一丁目1・2番地区再開発事業に伴い、2026年3月31日を以て日本橋本店は現店舗での営業を終了、閉店する予定である[1][2]。
社名の由来
創業年
歴史
1700年代の初め、現在の武州飯能に吉左衛門四世という者がいた。家は士族でありながら農業で生計を立てていた。1700年代なかば頃、吉左衛門四世は先祖代々の士族の位を捨てて菓子業を始めた。名前も善兵衛に変える。これが榮太樓の菓子業の始まり。そのときに作っていたのは煎餅焼。その商いは息子の善兵衛二世や孫に継がれる。この孫の名前が徳兵衛。徳兵衛は1817年に妻を亡くし、その翌年に孫二人(安太郎、安五郎)を連れて江戸御府内に出府。徳兵衛は江戸の九段坂で煎餅焼の商売を開始。店名は「井筒屋」。その井筒屋はのちに安太郎が継ぎ、安五郎は独立して別の菓子店に勤める。安五郎は腕が良く職長をしていた。やがて安五郎は「伊立屋」の看板を掲げて一本立ち。1830年に結婚。1832年に長男、栄太郎が生まれる。栄太郎は子供の頃からよく父の商いの手伝いをしていたので町内では孝子で通っていた。
1852年、栄太郎19歳のときに流行り病で伯父と父親を同時に亡くす。母と弟や妹など家族もいるので栄太郎は伯父の名である安兵衛を継いで一族の長となる。このとき九段坂の井筒屋はもう傾いていた。栄太郎は日本橋南詰の屋台商売にさらに精を出す(今の西川ビルとコレド日本橋の間)。栄太郎の金鍔は非常に有名で、とくに魚河岸で働く軽子たちには甘くて栄養価も高い金鍔は大人気だった。その後1857年(安政4)、西河岸町に店鋪を構える。当初は井筒屋の屋号で商売を始めたが、お客様が「栄太郎の店」と言うので、数年後に店名も「榮太楼」に変えてしまう。店鋪の場所は現在も本社として同じところにある。
明治期になると上野で開催された内国勧業博覧会や海外で催された万国発明品博覧会などに商品を出品しながら、知名度を東京一円に拡大してゆくとともに、1940年には有限会社を経て、1972年、株式会社へ改組。1981年には「缶入りあんみつ」を発売。国内の百貨店の各専門店で販売すると共ともに同社を代表する商品へと成長させる。
商品
金鍔

江戸町人のお菓子として、大福餅などとともに現れたのは享保年間(1716年 - 1735年)頃と言われている。それ以前、貞享年間(1684年 - 1687年)に、粳の皮で小豆餡を包んで焼いたものが、京都に現れ「銀鍔」(形が刀の鍔のようで、粳の皮だから焼き色が白かった)と称して売られていた。これが江戸に渡り、小麦の皮に変わったことで黄金色の焼き色がついたことから金鍔として名付けられた。
江戸時代末期、栄太郎が日本橋南詰(食傷新道の「木原店」)にて屋台店を使って売っていたのが金鍔。えいたろうの金鍔の名前と味は江戸市中に評判となっていた。もともと金鍔自体は江戸を代表するポピュラーなお菓子であった。創業者の栄太郎は日本橋の魚河岸で金鍔を焼き売りし、評判を得た[3]。製法は十勝産エリモ小豆の粒餡を薄い小麦粉生地で包み、ごま油を引いた銅板で焼き上げる[4]。
江戸時代の川柳にも金鍔の人気を物語る歌が数々残されている[要出典]。
- “さすが武士の子金鍔を食いたがり”
- “年季増しても食べたいものは 土手の金鍔 さつま芋”
榮太樓飴
榮太樓飴というのは以下の飴の総称である。「梅ぼ志飴」、「黒飴」、「抹茶飴」、「紅茶飴」、「のど飴」。
梅ぼ志飴
商品名の印象から梅味と思われがちだが、同商品に梅は含まれておらず、梅味ではない。棒状に伸ばした赤い飴を鋏で一口大に切り分け成形する際、断裁した飴の切り口や欠けの部分で唇や口腔内を傷つけないよう、ひとつひとつ指で摘んで整えていた。表面にシワが寄った様や大きさ、色が「梅干し」に似ていたことから名付けられ、「梅ぼ志」と当て字を用いて商品化された。実際は甘いのに、敢えて「梅ぼ志」と称したところに、江戸っ子の洒落と機智がでている。
米を材料にした「和飴」とは異なり、ザラメとさつま芋から作られた水飴を原料とし、南蛮渡来の細工菓子アルフェニン(和名:有平糖)の製法で作り上げられている飴である。
歯に付かずカリカリと軽やかに噛み砕けるキレのよさに加え、砂糖の熱分解により生じるカラメルを主体とした複雑な風味は独特のコクがあり飽きない。
明治・大正時代、東京の旦那衆が上方の花街に出向く際の土産としても人気があった。「梅ぼ志飴」を少し溶かして唇に塗ってから紅をつけると唇も荒れず、また、現代でいうリップグロスのように艶やかな照りが出ると芸妓・舞妓たちの間で評判になったという。
甘名納糖
江戸時代に日本橋で生まれた甘納豆の元祖。榮太樓總本鋪の本店でしか売っていない。第一回内国勧業博覧会(明治10年)で優等賞を受賞した。
にほんばしえいたろう
若い人にも和菓子をもっと気軽に召し上がっていただきたいというコンセプトから生まれたブランド。
和のおやつ菓子をかわいらしい小袋仕立てで取り揃えており買いやすい。アトレ恵比寿にある本店では生どらやきも販売している。
東京PEASEN
エッフェル塔のマークが懐かしいピーセンは、昭和後期に東京土産として一世を風靡した。
もともとは銀座江戸一が製造販売を行なっていたが、同社が廃業して以降、榮太樓總本鋪にブランドが引き継がれている。
からだにえいたろう
「ヘルスケア×和菓子」をテーマとした榮太樓總本鋪のお菓子ブランド。
業界初の低糖質羊羹、血糖値が上昇しにくいどら焼き等、幅広い年齢層に向け健康に気を配った商品を取りそろえ、ドラッグストアや調剤薬局などでも売られている。キャラクターの名前はえいたん。
のれん分け
明治18年創業の芝神明 榮太樓と明治38年創業の深川 榮太樓の二店だけが現存するのれん分けの店である。
ほかに全国に点在する「えいたろう」の名前がついた店舗はのれん分けではない。但し、昔榮太樓總本鋪で働いていた社員が「えいたろう」の名前で店を始めるケースも昔は多かった。
テレビCM
缶入りみつ豆のテレビCMで「はーい、えいたろうですー」というジングルがあった。1970年代には梅ぼ志飴のCMも流れていた。