横屋潤
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よこや じゅん 横屋 潤 | |
|---|---|
| 生誕 |
1884年8月5日 (現・高梁市) |
| 死没 |
1950年(66歳没) |
| 国籍 |
|
| 出身校 | 東京帝国大学農学部獣医学科 |
| 職業 | 農林官僚・宮内官僚 |
| 身長 | 173 cm (5 ft 8 in) |
| 体重 | 98.8 kg (218 lb) |
| 肩書き |
東京競馬場長 日本競馬会常務理事 |
| 配偶者 |
矩子(川島利就の長女) 砂(後妻) |
| 子供 |
陸子(長女) 一郎(長男) 三郎(次男) 五郎(三男) 英子(次女) 節子(三女) |
| 親 |
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| 親戚 | 横山昌次郎(甥) |
| 家族 |
横屋憲(弟・次男) 横屋猷(弟・三男) |
| 栄誉 |
勲三等瑞宝章 従三位勲四等 |
横屋 潤(よこや じゅん、1884年(明治17年)8月5日[1][2]- 1950年(昭和25年)[3])は、日本の農林官僚であり農林技師である。種馬師となり、東京競馬場長に就任。後年は日本競馬会(現:日本中央競馬会)常務理事となった。日本競馬会の理事長安田伊左衛門を補佐した。名馬であったダイオライト購入にも携わる。岡山県高梁市出身。
生い立ち
1884年(明治17年)に岡山県上房郡高梁町(現:高梁市)の新見藩士族[4]である横屋善次の長男として生れる[1]。潤の祖父である横屋幸喬(読み:ゆきたか)は新見藩の槍術師南役であった[4]。弟の次男横屋憲は倉敷紡績工場長・日華紡織監査役、三男横屋猷は長崎大学水産学部教授を務めた。親戚には、イェール大学卒業後、北海道拓殖銀行・十五銀行(後の三井銀行)常務取締役を務めた横山昌次郎がいる。
1899年(明治32年)地元に近い旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)に進学する。部活では、野球部で一塁手であった[5]。同期には、第2代山発商店社長(現:アングル)の山本発次郎、大阪無線電気学校(現:大阪電気通信大学)初代校長の長野新十郎、総合商社兼松社長の林荘太郎がいた。
1904年(明治37年)同校を卒業し、旧制第六高等学校へ進学する[6]。高校では端艇部と柔道部に所属していた[5]。特に柔道部においては、強いことでその名を馳せており、1906年(明治39年)には旧制高校柔道界の強豪である第四高等学校の正力松太郎(後の読売新聞社長)とライバルとしてよく対戦していた[5]。1907年(明治40年)6月、同校卒業し[7]、東京帝国大学農科大学獣医科へ進学する[8]。1910年(明治43年)7月、同校を卒業し、陸軍省馬政局に就職する[9][10]。
官僚として
陸軍省馬政局へ入局後、技手になり、青森県上北郡七戸町にある奥羽種馬牧場に配属される[10]。その後、1913年(大正2年)29歳で愛知種馬所長となる[11]。1916年(大正5年)には、秋田種馬所長になり[12][13]、1922年(大正11年)十勝種馬所長[14]となる。1923年(大正12年)には、種馬牧場の所轄が陸軍省から農商務省へ移る。そして、栃木種馬所の技師となる[15][1]。同年には欧米に出張する[2]。その後、農商務省が1925年(大正14年)に農林省と商工省へ分割される。農林省に属し、1928年(昭和3年)44歳で畜産局の馬産課長となり、日高種馬牧場長となる[2]。同時期に日本乗馬協会参与も務める[5]。

1929年、1935年にも欧米出張を行い、この経験が後の日本競馬へと繋がる[2]。日本競馬の父と呼ばれる安田伊左衛門らと共に日本競馬会設立委員会の幹事となり、日本競馬会設立に関わる[16]。その後、東京競馬場長となる[17]。途中、1934年5月31日、国より勲三等瑞宝章を受章する[18]。
1936年(昭和11年)宮内省の横屋潤と井上綱雄によって8500ポンドでイギリスから種馬を購入する。名前はダイオライトと呼び、千葉県の下総御料牧場で種牡馬入りし、同じ下総御料牧場のトウルヌソルや岩手県小岩井牧場のシアンモアらと並び、当時のトップクラスといえる高額な馬であった。その期待に応え、1941、1942、1943、1946年と4度に渡って国内リーディングサイアーを獲得するなど大きな成功を収め、1951年に死亡した後、その功績を記念して千葉の船橋競馬場ではダイオライト記念が催されている[19]。
1940年(昭和15年)3月、長年勤めた農林省と宮内省を退官し[20]、日本競馬会(現:日本中央競馬会)常務理事に任命される[21][22]。このまま終戦を迎えた。従三位勲四等を受賞する。