橋本龍伍
日本の政治家 (1906-1962)
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橋本 龍伍(はしもと りょうご、1906年(明治39年)6月2日 - 1962年(昭和37年)11月21日)は、日本の大蔵官僚、政治家。衆議院議員(6期)。位階勲等は正三位勲一等瑞宝章。称号は法学士。
| 橋本 龍伍 はしもと りょうご | |
|---|---|
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| 生年月日 | 1906年6月2日 |
| 出生地 |
|
| 没年月日 | 1962年11月21日(56歳没) |
| 死没地 |
|
| 出身校 | 東京帝国大学法学部法律学科 |
| 前職 | 大蔵官僚 |
| 所属政党 |
(民主自由党→) (自由党→) 自由民主党 |
| 称号 |
法学士 正三位 勲一等瑞宝章 |
| 子女 |
長男・橋本龍太郎(元内閣総理大臣) 次男・橋本大二郎(元高知県知事) |
| 親族 |
父・橋本卯太郎(実業家) 孫・橋本岳(衆議院議員) |
| 内閣 | 第2次岸内閣 |
| 在任期間 | 1958年12月31日 - 1959年6月18日 |
| 内閣 |
第3次吉田第2次改造内閣 第3次吉田第3次改造内閣 第2次岸内閣 |
| 在任期間 |
1951年7月4日 - 1952年1月18日 1958年6月12日 - 1959年6月18日 |
| 内閣 |
第3次吉田第2次改造内閣 第3次吉田第3次改造内閣 |
| 在任期間 | 1951年7月4日 - 1952年1月18日 |
| 選挙区 | 岡山県第2区 |
| 当選回数 | 6回 |
| 在任期間 | 1949年1月24日 - 1962年11月21日 |
大日本麦酒の常務を務めた橋本卯太郎の五男で、第82代・第83代内閣総理大臣の橋本龍太郎および高知県知事を務めた橋本大二郎の父、衆議院議員橋本岳の祖父である。
少年の頃に結核性の腰椎カリエスに罹って11年に及ぶ闘病生活を送り、生涯杖を離せない身体となった。苦学して第一高等学校、東京帝国大学法学部を卒業、大蔵官僚や内閣官房次長を経て吉田学校の一員として文部大臣、厚生大臣等を歴任した。
来歴・人物
生い立ち
1906年6月2日、東京府荏原郡目黒村に大日本麦酒(現・サッポロビール)社員の橋本卯太郎・マツの五男として生まれた[1]。本籍は渋谷区[2]。
大蔵官僚として
広島税務署長、大蔵省大臣官房戦時施設課長、経済安定本部財政金融局企業課長を歴任し、その間に独占禁止法などの立案に携わる[3]。吉田茂首相の下で内閣官房次長となり、政界入りを勧められ退官。
政治家として
1949年の衆院選で岡山2区より民主自由党公認で出馬し当選[4]。
1951年7月、12月第3次吉田内閣第2次改造内閣、第3次吉田内閣第3次改造内閣で厚生大臣兼行政管理庁長官に就任。
1958年6月第2次岸内閣で厚生大臣に就任。1959年1月第2次岸内閣で文部大臣に就任。
1962年11月21日、喉頭癌により東京麻布の自宅において死去。葬儀委員長は自身と当選同期で親交があった佐藤栄作(龍太郎の結婚仲人もした)。墓所は岡山県総社市の宝福寺。橋本龍伍は次男の大二郎を自分の後継者にする意向であったが、その時、大二郎はまだ被選挙権を持つ年齢に達していなかったため、急遽、橋本龍太郎が継ぐこととなった[5]。
栄典
家族・親族
エピソード
人柄・性格
小学校はなんとか卒業することができたが、逗子開成中学に進むころから闘病生活に入った。闘病生活の間に独学で勉強し、検定で逗子開成中学を卒業した。病院から退院した時には高等学校の受験資格を得ていたため、第一高等学校に進学するべく願書を提出した。しかし身体障害者は軍事教練ができないという理由で、願書は突き返された。ひとまず慶應義塾大学に入学したが、入学したのと同時に連日文部省に通い直談判した。その結果、受験資格の認定制度が改定され、自分で行動できる障害者にも官立の旧制高等学校、大学への受験資格が与えられるようになった[10]。慶應を卒業することはなかったが、一度自分に門戸を開いてくれた学校への愛着は変わらず、長男龍太郎の慶應義塾大学進学を大変喜んだという。
龍伍について長男龍太郎は「物心つくころから私には父におぶってもらったり抱いてもらったという記憶はありません。いつも松葉杖かステッキをついている父の後を追って歩いた、そんな思い出だけが残っています」[11]。「私が自分の父親を尊敬し今でも誇りに思うのはそのハンディキャップにもかかわらず自分の人生を自分の力で切り拓いていった、その強靭な精神力です。そして絶対に物事に対してあきらめを持たなかった。本当に挑戦者という姿勢を生涯とり続けたことです」と述べている[12]。
思想問題で官憲に追及されている友人を下宿にかくまったことにより、警察に2度拘留された[13]。
自身の体が不自由だったことから、「政治は弱い人のためにある」を政治信条にしていた。この信条は龍太郎にも引き継がれ、厚生族としてのキャリアを政界で重ねていくこととなる[14]。
その他
選挙歴
| 当落 | 選挙 | 執行日 | 年齢 | 選挙区 | 政党 | 得票数 | 得票率 | 定数 | 得票順位 /候補者数 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 当 | 第24回衆議院議員総選挙 | 1949年 1月23日 | 42 | 旧岡山県第2区 | 民主自由党 | 4万1370票 | 12.2% | 5 | 3/12 |
| 当 | 第25回衆議院議員総選挙 | 1952年10月 1日 | 46 | 旧岡山県第2区 | 自由党 | 7万0611票 | 19.1% | 5 | 1/10 |
| 当 | 第26回衆議院議員総選挙 | 1953年 4月19日 | 46 | 旧岡山県第2区 | 自由党 | 5万7291票 | 16.4% | 5 | 3/6 |
| 当 | 第27回衆議院議員総選挙 | 1955年 2月27日 | 48 | 旧岡山県第2区 | 自由党 | 5万6424票 | 15.1% | 5 | 2/8 |
| 当 | 第28回衆議院議員総選挙 | 1958年 5月22日 | 51 | 旧岡山県第2区 | 自由民主党 | 7万3383票 | 18.5% | 5 | 1/8 |
| 当 | 第29回衆議院議員総選挙 | 1960年11月20日 | 54 | 旧岡山県第2区 | 自由民主党 | 6万0414票 | 15.8% | 5 | 2/8 |


