櫛田ふき
日本共産党系の女性運動家
From Wikipedia, the free encyclopedia
概要

1930年代半ばに櫛田民蔵と死別し第二次世界大戦中はひとりで子ども2人[注 1]を育てながら敗戦を迎える。やがて壺井栄や壺井繁治[3]、宮本百合子を知る。
1946年3月16日、宮本、羽仁説子、加藤シヅエ、佐多稲子らが中心となり、「婦人民主クラブ」の創立大会が開かれる。発起人は計23人で、櫛田もその中に名を連ねた[4]。書記長を経て、1949年に委員長に就任した[5]。また同クラブ発足直後に発刊した「婦人民主新聞」の編集長の任を引き受ける[6]。
1953年に日本婦人団体連合会が結成され、国際民主婦人連盟副会長になって平塚らいてうが抜けると、櫛田があとを務め、1958年には3代目会長に就任した[7]。この間、1950年(昭和25年)の第2回参議院議員通常選挙に全国区から無所属で立候補したが落選した[8]。
1958年、婦人民主クラブ委員長を辞任。同中央委員を務める[9]。
1962年10月19日、新日本婦人の会が結成され[10]、初代代表委員に平塚らいてう、羽仁説子、丸岡秀子、帯刀貞代、勝目テル、櫛田の6人が選ばれた[11]。これとともに婦人民主クラブを退会した[9]。亡くなるまで新日本婦人の会の代表委員を務める。
1975年3月8日、「国際婦人デー中央大会」が日比谷野外音楽堂で開かれた。総評、中立労連、社会党・共産党系婦人団体などで組織する実行委員会が主催し、約7千人が参加した。櫛田は実行委員会会長を務めた[12]。同年、国際民主婦人連盟副会長[13]や全国革新懇世話人に就任[14]。1976年 (昭和51年) 設立の日本共産党全国女性後援会[15]の代表委員として、後進の候補を支持しつづけた。